2011年11月20日「義人は信仰によって生きる」新井 健二師 : ローマ人への手紙 1章16‐17節

序)

 前回ローマ人への手紙の1章11節から15節までを取り上げてお話させて頂いたのは、今年の3月のことですから、恐らく殆んどの方が、その内容をあまり覚えておられないと思います。

 そこで、一つだけ思い出して頂きたいことがあります。

 それは、今日の箇所の直前、15節に書かれている「ローマにいるあなたがた」とは、手紙の受け手である人々、即ち1章6節によれば「イエス・キリストによって召された人々」であり、ローマ在住のクリスチャンたちの事だということです。

 ですからパウロは、ここで、すでに福音を聞いて信仰を持っている人々に対して、「ぜひ福音を伝えたいのです。」と述べているのです。

 これを聞くと、私たちは不思議に思います。福音とは、悔い改めて信仰を持つ為に必要なものではないか。ですから、クリスチャンは福音を述べ伝える者ではあっても、福音を聞く者では無いはずだと。

 少し大袈裟に言っていますが、勿論、宣べ伝える為に、福音をもっと聞き、もっと学ぶ必要があるとは、皆さんも感じておられると思います。

 しかし、今日の箇所でパウロが言っているのは、決して、福音を宣べ伝える為に、その内容を詳しく学ぶという、そのような事ではありませんでした。

 それでは、パウロはなぜ、もうすでにキリストを受け入れ、信仰を持っている人々に対して「ぜひ福音を伝えたい。」と考えたのでしょうか。

 

 今日は、この疑問を心に留めて、共に学んで行きたいと思います。

 

本論1)私は福音を恥とは思いません。(1:16)

 それでは16節をお読みします。朗読。

 「私は福音を恥とは思いません。」パウロのこの言葉は、非常に印象的です。

 しかし、パウロはなぜ「私は福音を誇りとします。」とではなく、「恥とは思わない」という表現を用いたのでしょうか。

 パウロはここで「私は、」と言っています。この表現は、パウロ以外の誰かが、「福音を恥としている」ことを暗に示しているとも理解することができます。

 それでは、いったい誰が、福音を恥だと感じているのでしょうか。

 当時のローマ社会において、人々が最も大切であると考え、愛した、三つの価値観があります。それは、真・美・善というものです。

 この世の真実なこと、美しいもの、善なることを求めることは、当時の流行の哲学、言わば「時代の精神」でした。ここで一つ考えて頂きたいことがあります。

 それは、そのように真・美・善を求めるローマの人々の目に、イエス・キリストの十字架の死と復活は、どのように映ったのだろうかと言うことです。

 十字架とは、重い罪を犯した者をさらし者にする行為です。言わば「この罪人には、一切の真実も美も善も見出されなかった。」という、人々に対するメッセージなのです。

 当時の人々が、十字架と聞いて心に描くイメージは、現代のように、宝石で飾られた十字架のアクセサリーを価値あるものとする文化の中にあっては、なかなか理解することができません。

 また、この世の真実を追い求める人々にとって、死者が甦るなどという話は、取るに足らない、子供騙しのばかげた話であったに違いありません。

 当時の文化にとって、十字架に架けられた者を、神として崇めるなどという事は、醜悪であり、恥を通り越して、狂気ですらありました。

 そこでローマ帝国は、キリスト教を邪教として迫害していたのです。

 また、福音を恥としたのは、ローマ人だけではありませんでした。

 ユダヤ教もまた、「汚れたものからは、一切離れよ」という、極端な分離主義に立つ宗教でした。

 汚れた者に触れれば、触れた者も汚れる。そこで病に苦しむ人々を町の外に追いやり、行き倒れを見ても、自分が汚れることを恐れて近付かない。それが当時のユダヤ教の指導者たちの姿でした。

 そして彼等の律法の書には、「木につるされた者は、神にのろわれた者(申21:23)」であると書かれています。

 十字架は、「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚か(第一コリ1:23)」であると書かれている通りです。

 これらの事を考える時、当時の人々が、十字架に架けられたイエス・キリストを、神であると理解するのは、或いは、現代の私たちよりも、遥かに困難であったとも考えられます。

 そしてパウロ自身も、かつては十字架を恥とし、キリスト教徒を激しく迫害する者でした。

 それでパウロは「私は、もはや、福音を恥とは思いません!」と、ここで信仰の告白として宣言しているのです。

 ここでは、もう一つの事をお話して、この話題を閉じたいと思います。

 それは、パウロの手紙の多くの部分は、口述筆記、即ちパウロが実際口にした言葉を、弟子、或いは、同労者が書き留めたものであるという事です。

 ですからこの言葉も、黙々と手紙を書き記す内に思い浮かんだ言葉ではなく、ローマの人々に何を話すべきだろうかと考え、そして実際話している、そのただ中でパウロが口にした言葉であるという事です。

 また、当時の手紙とは、黙読されたものではなく、朗読されたものであり、「読まれる」というよりは「聞かれる」ものであったという事も付け足しておきたいと思います。

 「私は、福音を恥とは思いません!」このパウロの信仰告白は、手紙の朗読者を通して、まさにパウロの声として、聴衆の鼓膜を震わしたであろうと想像することができます。

 

本論2)福音は、、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(1:16)

 それでは続けて16節の後半を見ていきたいと思います。

 「福音」は、「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」とあります。

 パウロは福音を、単なる観念や、思想としては捉えていませんでした。

 「救いを得させる神の力」、これこそが、パウロの福音理解です。

 また、ここで「信じるすべての人にとって、」と言っているのは、決して、救われる為の条件として「信じる」という行為を強調しているものではありません。もし、そうだとしたら、それはやはり、福音は、「神の力」ではなく、信じるべき内容を持つ概念、思想という事になってしまいます。

 そうではなく、この「信じるすべての人にとって、」というのは、福音は、この手紙の受け手であるローマのクリスチャンたち、また、今この手紙を読んでいる私たち、さらには歴史上に存在し、またこれからも存在し続ける「信じる人々の群れ」であるキリストの教会全体に対して働く、「救いを得させる神の力」であるという事を保証して、パウロはこのように言っているのです。

 だからこそ、パウロはローマにいるクリスチャンたちに、ぜひ、この「福音を伝えたい」と強く願っていたのです。

 それでは、ここで言われている「救い」とは、なんなのでしょうか。

 クリスチャンであるローマの人々は、まだ「救い」を得ていなかったという意味でしょうか。

 ここで、聖書の語る「救い」の意味について詳しく学んで行きたいと思います。

一般に、聖書の語る「救い」には、3つの段階があると言われています。

 その第一の段階は、私たちが「義認」と呼んでいるもので、「救い」の「所有性」を意味しています。これは、私たちがすでに、救いを持っているという意味で、聖霊様の働きによって、「イエスは主である」と私たちが告白した瞬間から、「信仰」と共に授かる「賜物」としての「救い」であると言うことができます。

この「救い」を受け取る為に、私たちは何も行う必要はありませんし、また、行う事も出来ません。すべては先行する、神様の選びと、愛と、恵みによります。

 「救い」の第二の段階は、私たちが「聖化」或いは「聖(きよ)め」と呼んでいるもので、「救い」の「進展性」を表わしています。聖書が語る、「救い(ソーテリア)」には、「病が癒されること」、「失われていたものが回復されること」、或いは「囚われているものが解放されること」などの複数の意味が含まれています。

 このような言葉からは、「救い」を必要としている、いわゆる社会的弱者の姿が思い浮かんで来ますが、聖書の語る「救い」は、勿論そのように対象を限定したものではありません。

 聖書は、生まれながらの人間を、すべて「救われる必要がある」存在として取り上げています。なぜならば、人間は、神様の創造の最高傑作として、神様の似姿として造られたもので在ったのに、神様との人格的な愛の関係を味わい、共に喜び楽しむ為に与えられた「自由意志」という特別の「賜物」を、誤った方向に用い、罪を犯し、自分自身をその罪の中に閉じ込めてしまったからです。それはもう、本来の人間の在るべき姿ではありません。

 ですから、すべての人間は「回復される」必要があるのです。

そしてそれは、この地上においては、ただ一回の出来事ではなく、継続的な「進展性」を持って、段階的に完成に向かうものなのだと聖書は語っています。

 「救い」の第三の段階は、私たちが「栄化」と呼んでいるもので、「救い」の「完成」と共に「待望性」を表わしています。

 この意味での「救い」は、時間的に「未来」に属しています。

 そして、その「未来」とは、この地上においては、常に遥か彼方にあり、決して到達出来ない「未来」です。

 私たちは、「救い」の第一の段階である「義認」において、今まさに「救い」を持っていると確信し、第二の段階である「聖化」において、この世で「救い」を経験し、味わい続けていますが、神様の与えて下さる「救い」が、この地上においては、決して完成しない事を知っています。

 私たちは、この地上で、どれだけ多くの恵みを受け、神様との関係を深めたとしても、決して満ち足りる事は在りません。それは、私たちが、貪欲だからでしょうか。

 この「救い」という一事に関してだけは、満ち足りないという事が、罪であるとは、私は思いません。神様は、私たち人間を、ご自身と愛の関係を結び、全く一つとなるように、初めからご計画してお造りになられたのだからです。

 その事の成るまでは、私たちは、永遠に満ち足りる事はありません。そこで私たちは「マラナ・タ!来て下さい、主よ!」と心から叫ぶのです。

 私たちには「救い」の完成が必要であり、イエス・キリストにある福音だけが、私たちに、その「救いを得させる神の力」なのです。

 

本論3)義人は信仰によって生きる。(1:17)

 それでは最後に17節を見て行きたいと思います。朗読。

 ここに、「福音のうちには神の義が啓示されていて、」とあります。

 この「神の義」という言葉にも、「救い」と同様、幾つかの豊かな意味が含まれています。

 それは第一に、神様の性質としての「完全な正しさ」です。第二に、イエス様の十字架によって私たちに与えられる「神様の目に正しい者」であるという私たちの立場、即ち「救い」における「義認」の段階を意味しています。第三には「救い」における「聖化」と「栄化」の段階を通して、将来私たちに与えられる「人間の正しさの完成」を意味しています。

 このように詳しく見て行きますと、先ほどの「救い」という言葉と、この「神の義」という言葉は、一つの言葉では完全に言い表す事の出来ない、神様による一つの豊かな御業を、それぞれ別の角度から表現しているものであるという事ができます。

 ここで、16節、17節の一部を、私なりに言い換えてみたいと思います。

 「福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力、また神の義です。」

 このように表現してみると、今度は「神の力」と「神の義」という言葉が、「救い」という同じ目的の為に奉仕する、「双子の兄弟」のように感じられます。

 この考え方では、神様が私たち人間に奉仕しているという事になりますが、考えてみれば、イエス様の十字架によって現された「福音」とは、まさに、神であるお方が、仕える者の姿をとって、この地上に来られ、また私たちの為に死んで下さったという、信じられないような出来事の事なのです。

 そして「双子」である「神の力」と「神の義」は、その働きによって、私たちを「信仰に始まり、信仰に進ませる」のだと聖書は言っています。

この「信仰に始まり、信仰に進む」ということこそが、私たちの「救い」の段階そのものであると理解することができます。

 「信仰」を持ち、「信仰」に生きる。それでこそ、私たちは「救い」の全体を「味わう」ことができるのです。

 この「信仰にはじまり信仰に進ませる」という言葉は、宗教改革者ルターが表明した「信仰のみ」という宣言の根拠の一つとして、一般に理解されています。

 つまりパウロは、ここで「福音」の内容である私たちの「救い」に向けての神様の奉仕に対して、私たちの側の応答として求められているものは、徹頭徹尾「信仰のみ」であることを強調しているのだという事です。

 16節の「福音は」という所から、もう一度お読みしたいと思います。朗読。

なんという力強い言葉でしょうか。

 パウロはここで、福音は「救いを得させる神の力」であると宣言しています。

 そしてここでは、「信じる」という事さえ、人間の側の自主的な行為としては語られていません。

 福音は「救いを得させる神の力」である。それで、パウロにとっては、福音は、ただ宣べ伝えられる事こそが重要だったのです。

 福音には、力ある「神の義」が啓示されているので、それを受け入れるすべての人に「救いを得させる」事が出来るのです。逆に、もし宣べ伝えられないならば、人は他にどんな努力をしても、救われる事はありません。

 そして「救い」を別の言葉で表現するならば、「信仰に始まり信仰に進む」事だと、パウロは言っています。さらに「義人は信仰によって生きる」と。

 それでは果たしてこの「信仰」とはなんでしょうか。

 ここに使われている「信仰(ピスティス)」という言葉は、聖書が書かれたもともとの言葉では「真実」とも訳されることのある言葉です。

 聖書の他の箇所では、同じ言葉が、私たち人間に対する神様の側の「真実」という意味で使われています。例えば、ローマ人への手紙3章3節などがそうです。

 つまり、「信仰」とは、神様の「真実」な働きかけに対する、人間の側の「真実」な応答、即ち、「完全に信頼する」という態度を意味しているのです。

 しかし私たちは、神様が「真実」であるのと同じように、「真実」では、当然いられません。

 私たちの真実とは、「今この時、神様に対して真実であろう。」という決断による、一時的な真実です。或いは、「常に真実でありたい。」という希望を持ちながらも、この地上においては決して完成する事のない「救い」と同じく「進展性」と「待望性」を合わせ持った発展途上にある不安定な真実です。

 パウロは、「福音」が、私たちに「救いを得させ」「信仰に進ませる」のだと言っています。

 つまり「救い」についても「信仰」についても、主体となるのは私たちではなく、「福音」、即ち神様ご自身であり、また神様の「力ある、義の行為」であるということです。

 これこそが、傷つき、破れ、完全に破綻した、絶対的に「救い」を必要としている私たち人間の現実にとっての大きな「福音」、即ち「良き知らせ」なのです。 

私たちの「救い」、そして「信仰」を持って生きる人生の主体は、神様です。

私たちの側に求められているのは、只、その「福音」に耳を傾ける事だけなのです。

 福音は、この世界において私たち人間こそが主体であるという、この世の価値観に、真っ向から立ち向かいます。

 この世は言うでしょう。「あなたがたが自分で始めなければならない」。

 しかし、神の言葉である聖書は言います。「あなたがたは黙っていなければならない(出14:14)」。

 最後に「義人は信仰によって生きる」というみことばに注目したいと思います。

 「義人は生きる」この言葉は重要です。なぜならば、これはもし「義人」でないのなら、逆に「滅びる」事をも意味しているからです。これは恐ろしい事です。

それでは「義人」には、どのようにしてなる事が出来るのでしょうか。

 それは今日の箇所、或いは聖書全体の主題である「福音」に耳を傾けることです。

 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ロマ10:17)」と書いてある通りです。

 「信仰」とは、私たちの人生のすべての分野において、神様が主体である事を認める事です。そしてその主体である神様に完全に信頼する事です。

 

 結論を申しあげます。

 義人は信仰によって生きる!義人とは、黙って、神様の語る福音に耳を傾け、その福音に完全に信頼する者の事です。