2011年12月25日「信じられない程のお方」兼松 一二師 : 使徒の働き 13章26‐41節

今日は、クリスマス(イエスさまのご降誕のお祝い)と共に、2011年の最後の礼拝です。そういう意味で、今年を振り返りながら、イエスさまに集中したいと思います。

 

小さい頃、三本ぐわで畑を耕すのを手伝ったことがあります。三本ぐわで掘り起こして、畝(うね)を作っていく。頭の中では畝をまっすぐに作っていると思って進んでいき、途中で立ち止まって振り向いて見るとグニャグニャ曲がっている。これではよくない、まっすぐの畝を作らないといけない。それで、畑の端の方に杭を打って、それをめざして作っていくと割合まっすぐな畝を作れた。

私たちの生活や人生も、自分の頭で考え、よい人生にしようと思って生活を工夫し、人生を作っても、ちょっと立ち止まって振り返るとグニャグニャ曲がっている。どうしたらよいのか。生活をしっかりと築き、人生をよい風にしていくために、どうしたらよいのか。

 

第一に26節、神を畏れ敬うことです。

16節にも繰り返されています。神を畏れ敬ってきた方々、よい人生でしたでしょうか。実は神を畏れ敬ってきたはずなのに、私の人生はちっともよくなかった、という方がおられるかもしれません。

27節、エルサレムに住む人々とイスラエルの指導者たちも、神を畏れ敬う信仰生活をしていましたが、よい人生を歩んだとは言えない人々です。安息日ごとに、しっかりと聖書を読んだ。礼拝も行った。しかし聖書を正しく理解していなかった。それだけでない。聖書を読み、安息日ごとに礼拝を捧げていながら、人を見る目が厳しい。イスラエル人以外の人々を見下げてみる。それだけでない。日頃一緒に社会生活をしていながら、自分を正しいとし、他人を罪と定める。他人がいつも悪い。その最たることは27節「イエスを罪に定めて」、さらに28節「死罪に当る何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要した」正しい方が、あまりにも眩しかったので、妬んで殺そうと決意した。

私たちの国で「誰でもよかった」といって、何の理由もないのにとっさに人を殺す事件がある。あまりにも幸せそうで、眩しいほど朗らかな人に、妬みを感じて殺していく。実はエルサレムに住む人々もその指導者たちも、イエスさまが正しく、いつくしみに満ち、聖かった、それが眩しかったので妬んだ。妬んだ人々も、人を罪に定めることが善いことか悪いことかは分るはずでした。聖書も読んでいた。礼拝もしていたのに、どうしてこういうことになったのか。イエス・キリスト、このお方にしっかりと目を注いでいなかったからです。宗教という宗教をもって宗教心が篤くても、どんなに書物を読んでも、イエス・キリストにまともな理解をもっていないなら、すべて生れながらの人間、肉の人にすぎない。宗教という宗教でも、私たちを善くはしない。

 

第二、イエス・キリストについてのまともな理解をする、というのはどういうことか。28-30節、

28節、イエスさまは死罪に当る何の理由もないのに十字架で殺された。29節、十字架で殺され、墓の中に納められた――確かに死なれた。30節、死者の中から甦らされた。

このような驚くべき出来事は31節、多くの人たちに目撃され、目撃証人たちによって語られてきた。聖書の内容は、この目撃証人たちの証言です。それを理解していますか。多くの人は「そんなことは知っています」という。知っているのに、まともに理解していない。だから人の過ちをあげつらい、人を罪に定め、自分は正しいとしている。

イエス・キリストについてのまともな理解をするとは38節「イエスさまが……十字架で殺され、確かに死なれ、死から甦らされたのは、『私のため』です」という理解です。そのことを知っているというのとそのことは私のためですと受け止めることは全く違う。「イエスさまの身に起ったことは私のためです」と受け止めるとき、38節、自分の罪の赦しが与えられると分り、神が今後私をどういう所に導こうとしているのかが分る。このことを一言で26節「救い」という。イエスさまの死は私のためです。甦らされたのも、私のためです。自分のためであるというように、理解がなされていますね。

 

第三、神が私たちを導こうとしている所は何か。30-37節、

ここで30節「イエスは死者の中から甦られた」ことが34節「朽ちることがない方」とされた。37節「神が甦らせた方は朽ちることがありません」ここで主になっているのは「神」です。「神は……この方を甦らせた」「神がイエスを死者の中から甦らせた」甦ったということは朽ちることがないということです。しぼむことがない。生命にあふれている。しかも、生命はあり活気に満ちているが手に負えない厄介なもの、というのでなく、生命にあふれ、輝いて、しかも整えられた、力になる、希望になるようなもの。神はそういうものを、私たちに、イエスさまを通して身に着けさせようとしておられる。

 

ある、とっても年老いたおじいさんがいた。その所に、ひ孫がやってきた。まだ5歳か6歳ぐらいのひ孫です。おじいさんの手はしわがもう波打っている。それにさわりながら「おじいちゃんの手は手でないみたい」じゃ何に見える?「杉の木みたい。ごわごわして何かの木のよう」朽ちるということを深く感じさせる会話です。しかし、おじいさんは言う。「いつか神さまは私の手を、おまえのようにきれいで、すべすべして、もう朽ちない生命あるものにしてくれるんだよ」それを復活の体という。神さまはイエスさまを死から甦らせて朽ちない生を与えたように、私たちにも与え、そして神と共に歩ませ、それを喜びとさせようとしておられる。