2011年8月14日「原点に帰れ」兼松 一二師 : 使徒の働き 7章 44‐53節

今年の世界遺産登録に岩手県奥州平泉の中尊寺が登録されました。世界の文化遺産と自然遺産を後の時代に引き継がせようと1972年にユネスコで決められてから、この遺産の保護が続いています。特に文化遺産は歴史の重みを感じます。カルロス・フォン・ウォルフレンという方が「歴史が作られていくには何かを造ったとか、建てたとか、記された文字が残されていなければならない」と言いました。

 

さて、ユダヤ人は次の世代、時代をこえて後代に引き継がせたいものをもっていました。二つの遺産がありました。神殿(44-50節)と律法=旧約聖書(53節)です。ところが、この神殿と律法について違った考え方をもつ、キリスト教が興ってきました。

 

ユダヤ人の中の、わけても上の階級に就いている人たちは、新しく興ってきたキリスト教に不安と敵意を感じてきました。そして6:12-14のような偽装工作が起った。それに対して7:1-53でステパノは弁明していく。

 

第一、神殿についての弁明(44-50節)

ヨーロッパの国を旅行しますと、カトリック教会の礼拝堂は、昔、その国の威信をかけて造ったものがあります。今日では逆立ちしても作れない。それで、そういう教会を見学に連れていくヨーロッパ人は、誇りをもって案内してくれます。

 

同じようにユダヤ人は神殿を誇った。それこそ、ユダヤ人の威信をかけて作った神殿ですから。それに対してステパノはキリスト教理解から述べていく。

44節、ここで見逃してはならないことは「もともと、この神殿の原型はあかしの幕屋でした。証しの幕屋は、人間が威信をかけて造ったというものではない。神さまが命令された通りのものを造ったのです。」

 

「見た通りの形」これは「原型」という意味です。原型はテントだった。台風や嵐が来たら吹き飛ばされてしまうような、テントでした。それが原型です。神さ まは私たちの間に住むために、テントを造れと言われた。そこで神さまは人々と会うと言われた。それで「会見の天幕」と呼ばれた。また、神さまがモーセを通 して明らかにしたみことばがテントに置かれた。あかしのことばが置かれていたので「あかしの幕屋」と呼んだ。神さまはみことばを通して語り、私たちと出会 う所としてテントを造らせた。これが神殿、教会堂の原型です。礼拝堂も、聖書のことばを通して神と出会う所として建てられている。このような理解が長い 間、時代から時代へと受け継がれてきた。

 

46,47節、ところがダビデの時代、ダビデは神殿を建てようと願った。それは「神の前に恵をいただいて…(神に)願い求めた」ことです。威信をかけ、誇 れるものを建てようと建てたのではない。「自分は立派な王宮、宮殿に住んでいながら、神のみことばが置かれているのはテントの中であるというのは、申し訳 ない」というへりくだった、純粋な気持ちからでした。神殿を造らせて下さいと神さまに許可を願い出たのです。ところが神さまは「私のために神殿は造らなく てもよい」と言われた。47節「けれども(それなのに)」ソロモンが神殿を建てた。このソロモンの建てた神殿に対しての神の答えは、48節「しかし、いと 高い方(神)は(人間の)手で造った家(神殿)にはお住みにならない」という内容です。神さまが安心して居られ、心底から休まる所は49節「天」です。

 

なぜ、神さまは神殿に住まないのか。

みなさんは、この教会堂に、神が住んでおられると思いますか。

この教会に神さまが住んでくださるのは、44節「あかしの幕屋」である時、つまり、イエスさまについての証しのことばを聞こう、イエスさまのことばを通して神さまとまみえたい、そのような場所として求めにきている時、神はここに臨んで下さるのです。

 

しかし、かつての神殿に神が住まなかったのは、人々が神殿を利用するが、神を求めなかったからです。神殿を利用するが、みせかけの宗教的ふるまいで、神さまにへりくだり従おうとしない。自分の罪の恐ろしさを知ろうともしない。

神に従おうともしない、ただ利用するだけの人々のおる神殿に、神はおいでにならない。神のおらない神殿になる。ある人々は、自分を見せびらかす絶好の場と して神殿を利用した。そんな神殿に神はいない。宗教や信仰のままごとをしているような人々の神殿、教会堂に神はおられない。

 

人間の最も恐ろしい悪は、自分勝手であることと、神と人にそむくことです。私は何と罪深い人間だろう、この罪を赦して下さい。こんな私をイエスさま何とかして下さいと、求めてくる人々の教会堂、神殿に、神はお住みになる。

51節「心と耳に割礼を受けている人」とは、聖霊が立てた人々に心を向け、耳をすまして聞きとる人のことで、聖霊が立てた人とは「預言者」「正しい方=イ エスさま」のことです。預言者、イエスさまに心が結ばれていて、まずイエスさまのおっしゃることを聞こうとしている人々の集まりに、神は臨んで下さる。

 

この礼拝堂を設計した人と私は語り合った。その中のひとつに「礼拝堂は白一色にする」なぜ?「そこに物を置いたら、その物が浮き彫りにされるように。そこ に立った人が浮き彫りにされるように。もっと深く言うと、そこに立った人の心の中、技術が浮き彫りにされるように」このことを聞いたとき、身震いするよう な思いだった。もし私が自分の栄誉を求めてここに立つならそれが浮き彫りにされ、そのようなときに神さまはここにいない。しかし、もし私の説き明かしのイ エスさまが浮き彫りにされるなら「あかしの幕屋」となり、イエス様からたくさんの祝福を受けるだろう。

 

第二、ユダヤ人の歴史への指摘(51-53節)

ところが51-53節を見ると、ユダヤ人の歴史は、神が立てた人々、そしてイエスさまに「いつも逆らった」。53節、聖書をもって教えられてきているのに 「それを守ったことがなかった」。このことばは、ステパノが同胞(2節)のユダヤ人に語っていることばです。同胞、自分たちの国民の歴史を振り返り批判し ている。

 

51-53節、これはひとつに、自己批判のできる国民だと言える。

8月になると、日本はいつも戦争のことがテーマになる。しかし私たちの国、そして私たち自身は、自己批判をしっかりしているだろうか。あの戦争の時、教会は何をどうしただろうか。他人批判はするが、自己批判ができていない国民ではないか。

 

51-53節、もうひとつの目で見ると、これは悔い改めの呼びかけのことばです。

イエスさまを「正しい方」と呼んでいる。私たちは、一部分は善良で、良いところがあり正しいところがある。しかし聖書を読むと、私たちの正しさは顕微鏡でしか見えないほどのものです。

 

私たちにとって拠り所とすべき正しい方はイエスさまです。本当にイエスさまを知ることがなければ、本当に自己を省み、反省することはできない。この方にい つもへりくだって聞き、従った生き方をすることが、神さまの喜び、また愛し、用いられることです。また平和で、良い実を与えられる。

 

私たちは、イエスさまに帰ろう。