2011年9月11日「一人を導くため」兼松 一二師 : 使徒の働き 8章26‐40節

私は初めて教会に行った時、聖書研究祈り会の時でした。外人がいました。こんなに近くで外国人を見たのは初めてでした。キリスト教のキの字も知らない私にとって、先ず心の中に浮かんだのは「この外国人は何のためにここにいるんだろうか」ということでした。

その外国人からイエスさまのことを聞いていたんですね。

やがて私はクリスチャンになりました。その時に、「この外国人のおかげで、私はイエスさまを知った。そしてこの外国人は自分の生涯をイエスさまにさ さげ従って、日本に来て下さったのだ。この方がいなければ、私はイエスさまを知らなかったであろう」そう思うと、この外国人への感謝がでて、また、この外 国人との出会いに感謝した。

この出会いは、偶然のことだったのだろうか。

 

26節「ところが主の使いがピリポに言った」主の使いと、

29節「御霊がピリポに言われた」と、御霊が出てきます。

実は、一人の人にイエスさまを知らせるために ある人を遣わすのは主であり、聖霊であることが分かります。私たちは何の気なしに会っていますが、主イエスさまを知り信じるように、そして主と共に生きる喜びを分ち合うように人々と出会うのは、御霊のお取計らいであることを知りましょう。

 

第一、ピリポについて。(26‐39節)

26節、主の使いはピリポに言った。「ガザに下る道へ行け」そのガザ、またガザに下る道は荒れ果てていて、人気(ひとけ)のないところである。

私たちは人のおる所、つまり賑やかに栄えているところに向かう。ましてピリポは聖書の教えを人々に伝えようとしている人です。伝道は人の居る所、人のたまる所に向かうのが原則に思っている。ところが主の使いはピリポに荒れ果てた所へ行けと言われる。何故なのかは語らない。

 

27節、ピリポはどうしたか。「そこで彼は立って出かけた」ピリポのへりくだりを見る。ピリポはここで「人気のないところにどうして行かなければならないのか、私は神さまのみこころが分らない」などとは言わない。主の使いが言われたようにした。これは主へのへりくだりです。

へりくだって行って、従っていく中で分かった。27節b「そこにエチオピヤ人の女王カンダケの高官で女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた」ピリポはすごい人物に出会った。主の使いは訳があって、彼をここガザに遣わしたのである。主の命令には、何か目指すものがあって命じておられる。ピリポが一人のエチオピヤ人をイエスさまに導くために、ガザに遣わされたのだ。

エチオピヤはアフリカの遠い国という意味で理解されている。しかも、現在よりも、もっと広い国の支配権をもっていた。今ピリポという伝道者を通し、福音はアフリカの遠く広い所にまで送り届けられようとしていた。

 

ただ心に留めたいことは、福音の教えは自然に、自動的に広まっていくものではない。

イエスさまの教えのことばは、自動的に、私たちの中に深いところまで届くのではない。受け取る人の心、語る人の心のあり方が、教えを広く高く、そして深く届けるのである。

ピリポは語る人として謙遜だ。

 

第二、エチオピヤの宦官について。(27‐40節)

27節、ひとつめ、この人は人一倍の弱さをもっていた。「宦官」であった。これは去勢された男ということです。

ある教会の役員をしている方が、私に身の上を話してくれた。「私は去勢した」どういう意味ですか。「こどもが4人いる。妻は38歳、まだまだこどもが生まれる。私は病気をして、仕事に就けない。もうこれ以上こどもが生まれないようにした。男として情けないものです」と話してくれた。去勢された男というのは情けないものだという心境のようです。これが男かといぶかしげにみられている人、それが宦官です。弱さを自覚している人です。

 

ふたつめは、そうはいうものの、27節「女王の高官で女王の財産をすべて管理していた人」です。みなさんの中に、家の全財産を握っている人はいますか。まかせてもらえない。家の半分も管理させてもらえない。実は、全財産を女王の方からまかせられているということは、絶大な信頼を受けているということです。エチオピヤの女王の全財産をまかせてもらっていることは、どれほど、信頼のおける人であるかが分る。一介の政治家とは違う。

 

27,28節、「礼拝にエルサレムに上り…預言者イザヤの書を読んでいた」神さまに心の開かれている人です。しかも自分勝手な求道心でない。浮かれた感じの求道心でもない。神さまにふさわしい態度で臨んでいる。つまり礼拝に出、聖書を、しかも声を出して読んで、心にことばを留めている。神への礼拝、しかも誰もが公的に認める教会へ礼拝に出て、聖書のことばから、神を知ろうとしている。自分の好き勝手なことをしていない。神さまに正しく向き合おうとしている。こういう人が信仰に入るとすごい。29‐31節からも、健全な心のあり方を見る。「聖書は導いてくれる人がいて意味が分る」自分勝手な理解をしていない。神さまにふさわしくありたいと求めている。

 

32‐35節、イエスさまへの信仰をもった。イエスさまは私たちの罪のためにほふられた羊である。イエスさまによって罪を赦される。

 

36‐38節、真心からイエスさまを信じているしるしとして、バプテスマを受けた。それと共にバプテスマは、イエスさまが私たちの罪のため死んだことと、神によって甦らされて今も生きていることとのしるしである。このバプテスマ理解をもって受け入れた。

 

つまり、この宦官は人に対してもイエスさまに対しても真っ当なあり方をしている。神はピリポを通してこの人をとらえた。これだけの人をアフリカ伝道の器として用いていく。

ある会社の経営者と話し合う機会があった。父が会社経営者で、小さいころからそのように育てられてきた。そして鍛えられて、今上に立つ。つらいと思うことばかり。なんでこんな人生を歩むのか。牧師さん、よく自暴自棄になる人、野宿生活者の人などが「ボクのことなんか分ってくれない」という。そういう人の心を分ろうとすることも大切だが、多くの労働者を率いる、上に立つ人の心もわかる牧師になって下さい。

 

真っ当な人が本気でイエスさまを信じると、広く遠く、深く宣教していくことにつながる。

次に来るサウロも真っ当な人だ。この人は、ヨーロッパへ伝える。

私たちが真っ当なものを身につけるなら、主の聖、力、光が届けられるだろう。