2011年9月25日「他人を介して」兼松 一二師 : 使徒の働き 9章10‐19a節

ある小学生のこどもが、教会に行くのが楽しくて楽しくてしょうがないほど、日曜日が待ち遠しいらしい。そこのお家に訪問した。こどもの家族が「この子はネー、教会へ行くのを喜んでいます。ありがとうございます」と言ってくれた。それは教会学校の先生への贈りことばです。私は子供に尋ねた。「教会で、何が楽しいの?」こどもは心の中を明かしてくれた。「教会に友人ができた。友人に逢うのが楽しい」

私は、このことは大きな学生にも、青年にも、夫人にも、壮年にもあてはまることだと思います。「教会に友人ができると、信仰と教会生活が楽しくなってくる」

 

9章1節「さてサウロは」、10節「さてダマスコにアナニヤという弟子がいた」

サウロという人はとてもきかん坊の青年です。このサウロは、アナニヤという男の人によって導きを受ける。

 

第一、アナニヤのあり方を10-18節にかけてみていく。

10節「弟子」とあります。弟子とは「学ぶ者」です。何を学ぶのか。22章12節「律法に忠実で、ユダヤ人に評判の良いアナニヤ」とありますから、聖書からイエスさまのことを忠実に学んでいる人という内容です。

私たちは時間ができたとき、何をするでしょうか。ショッピング、絵を描くこと。誰かを訪問する。畑仕事をする。掃除をする。私たちは時間を作って聖書を学ぶように、聖書からイエスさまのことを学ぼうとしていく必要がある。イエスさまを知ることは心の喜びにつながっていきます。更に、他の人と関わる中で何をしなければならないかを知っていきます。

アナニヤは、聖書からイエスさまのことを学ぶことを忠実にした。10節「主が幻の中で『アナニヤよ』と言われたので、『主よ、ここにいます』と答えた。」主イエスさまが幻の中で呼びかけると、きく用意ができているのが分ります。

みことばに聞き、学ぶことに忠実であると、イエスさまが重要なことをお願いし、託したい時、重要なことを受け取る用意ができている。アナニヤは偉大な人ではなかった。優れた人でもない。そのアナニヤに今イエスさまは重要なことをさせようとする。日頃忠実にみことばを学んで、ききとっているからです。

何が重要なことで、イエスさまが託されたことなのか。11,12節、サウロを主イエスさまに導くということです。何が人間にとって重要なことか。イエスさまを知り、信じて目が開けることです。

私たちは小さいころから、あれも大切、これも大切と感じて、必死になって色々なことをやってきた。気がついてみると大切なこと重要なことはそんなに多くはない。イエスさまを知り、信じて、目が開けることほど重要なものはない。アナニヤは、サウロをこの重要な所へ導くことをイエスさまに託されました。

 

13節、アナニヤはサウロに近づくことを嫌がって、こう言う。サウロという人は「ひどいことをした」人だ。ひどい(κακόν)というのは、人に悪影響を与えていく人だ。伝染病のように悪い影響を、どんどん広めていく人です。また悪質で、危険な人です。手に負えない野良犬のような危険な人です。そんな人に私が近づいて、導きをしなければいけないんですか。

ある時、トラクト配布をしていた。二段ほど階段を上って、門の内側にポストがあった。そこにトラクトを入れようとしたら、伸ばした手のそばに真黒な大きな犬が顔を出して、ウォンと吠えた。びっくりして、その時以来、そこの家をいつもパスした。誰でも危険だと思うと近づきたくない。アナニヤはサウロに近づくことに身の危険を感じたのです。人を恐れた。しかし、イエスさまは15節、行きなさい、一人の魂に近づけ!行け、と命じられた。17節、アナニヤは出かけていって、サウロの所へ行って祈る。アナニヤは聖書から忠実に学んでいるだけでない。イエスさまに従っていく人でした。

イエスさまに従っていくとき、18節、サウロの目が開けた。サウロの心にイエスさまからの光が入った。そして見えるようになった。一人の人を回心に導いた。

 

第二、サウロの使命を見ましょう。(15,16節)

サウロの使命は15節、イエスさまのことを、異邦人、王、イスラエル人に伝えることです。ヨーロッパの当時の広い所、ローマ帝国全領域に。しかもユダヤ人にも。そして政治のトップに立つ人たちにも。こんなに大切な使命を、イエスさまはサウロ本人に伝えないで、アナニヤに伝えている。アナニヤからサウロに伝わっていく。どうして、アナニヤを介して、サウロの使命を語るのか。サウロの高慢を打ち砕くためです。

13節で、サウロがクリスチャンたちにひどいことをしたのは、彼の性質が悪かったからか。ユダヤ教に熱心だったからです。ユダヤ教に熱心になればなるほど、キリスト教を憎んだ。クリスチャンたちを迫害し殺していくことによって、ユダヤ教の人々はサウロをほめたたえた。サウロは得意満々になってキリスト教を攻撃した。そのまちがった得意げな心を打ち砕くため、名もないアナニヤを通して、サウロの使命を知らせていく。

みことばを忠実に学ぶ、しかもみことばからイエスさまに従っていくアナニヤに聞けないなら、サウロは神の器にはなれない。名もない、しかし忠実なクリスチャンに聞き、受入れないなら、神の働きには就けない。大切な働きには就けなかった。

 

16節、サウロは、イエスさまから苦しみも言い渡された。

サウロは苦しみによってイエスさまをますます知っていく。苦しみが増すたびに、より多くの人の信仰、生き方に役立つ器となっていった。苦しむことによってイエスさまとますます密着した生涯を送ることになっていく。

ずいぶん前のこと、水野源三という脳性マヒになった方が、こんな詩を書いた。

「もしも私が苦しまなかったら、キリストの愛を知らなかった。

もしも多くの兄姉が苦しまなかったら、神の愛は伝えられなかった。

もしも主なるイエスさまが苦しまなかったら、神さまの愛は表われなかった。」

苦しみによって大切なこと、本質に近づいていく。