2011年10月2日「回心のしるし」兼松 一二師 : 使徒の働き 9章19b‐30節

出逢う人に「どこの出身ですか」と尋ねられます。私は秋田県です。秋田県で生れ育ちました。「どうして岐阜に来たんですか」イエスさまのことを宣べ伝えるために導かれたところが岐阜です。今、人生を振り返ってみて、私たちは何ヶ所か移り住んだ地があります。何年か住んでいくと、そこで、その後の人生を左右する体験をする。

秋田県で生れ育ち、そこで両親・兄弟・家族に本当に豊かに愛されて、育てられたと思います。次に茨城県に移った。そこでイエスさまを知って、イエスさまを信じた。

 

さて、サウロのことですが、9:(1)、19-25節では、ダマスコでのことが記されている。

最初に、この19-22節から学びましょう。

ダマスコで20節「ただちに諸会堂でイエスは神の子であると宣べ伝えた」、22節「サウロはますますイエスはキリストであると証明し…た」イエスさま、十字架につけられて死んだイエスさまは神である。罪を赦し、更に、罪から救ってくださる方である。サウロは、イエスさまが神であることをどのようにして分ったのか。9:1-5、その内の5節の体験です。「イエスである」という声を聞いた。イエスさまは死んだはずである。しかし今イエスさまは生きておられる。私たちの現実の中に生きて働いていることを知った。しかも19b節、クリスチャンたちはこのことを体験している。私だけでない。イエスさまは生きて、私たちの中で働いていると分ると「ただちに…イエスは神の子であると宣べ伝え始めた」

 

イエスさまに回心したしるし、証拠をパウロは明白にもっている。イエスさまに回心した証拠は、イエスさまを人々に知らせ始めた事にある。イエスさまを信じて罪の赦しをはっきりいただいている人は、イエスさまを救い主として知らせ始めていく。

私たちは、イエスさまに回心した証拠をしっかり持っていこう。

 

私はだんだん年を重ねて、この世の生活も残り少なくなってきたと思うと、教会の行く末を案じて来る。この教会を正しく導いていくのは誰だろう。イエスさまにはっきり回心した人々がキリストの教会を担っていくことになる。イエスさまに回心した人は、イエスさまを神として宣べ伝えていく。伝道するということは、世の人への信仰の言い表わしだ。

 

第二に、私たちが本物の信仰者になるためには、苦しみや困難を通過しなければならない。

23、24、29節、ユダヤ人はパウロの言うことを聞いて「この人は旧約聖書を厳格に学んだはずなのに、旧約聖書の弁護者でなくなった」と考えた。裏切者になったという誤解から、ユダヤ人に迫害され、監視されるようになった。これは教会外の人々からの迫害である。

 

それだけでなく、教会内の人々からも疑いの目でみられ、つまはじきにされる。26節、エルサレム教会の人々から信用されず――ここで脱線しますが、なぜパウロ(サウロ)はエルサレム教会へ行ったのか。26-27a「使徒たち」イエスさまの直弟子がいた。イエスさまからきいた福音をもっている。パウロは復活したイエスさまと出会った。福音の内容が共通しているか、検証するためであった――21節、ダマスコの教会の人々からも信用されない。今まで、トコトン、クリスチャンたちを迫害してきた人である。今、クリスチャンに見せかけて、もっとひどい迫害をするのではないか。人間そんなに急に変るものではない。あるいは簡単に考え方を変えられるものではない。そう考えている限り、教会内部の人々もサウロの回心を疑った。教会の外部の人からは迫害と身の危険を受け、教会内の人からは疑われ排斥されていく。これはキリストのための苦しみである。

 

私たちは信仰のことでなくても苦しみ悩む者です。失敗して悩み、仕事ができなくて悩み、人とぶつかって悩み、将来を考えて悩む。私たちは信仰のことで苦しむこともある。こんなに仕えてきたのに疑われ、世間の人と一緒にはできない。

なぜ、イエスさまのことをしたのに苦しまなければならないのか。私たちは苦しみ悩むとき、自分の同調者のところに行く。私たちの最高の同調者はイエスさまです。苦しみの中でイエスさまに逃げ込み、イエスさまによって歩むことを豊かに分っていくようになる。イエスさまによって歩むことが最も安全です。そのことを身をもって知るために、信仰の故の苦しみ、悩みがある。

 

それと共に、イエスさまのために苦しむ時、イエスさまはあなたのために友を送ってくれる。24-25節、26-27節、ある人は守ってくださる。ある人はバルナバのように弁護してくださる。イエスさまは必ず、あなたの信仰の励ましのために、力になってくれる兄弟姉妹を与えてくださる。ある兄姉に守られ、弁護していただく経験が、何につながったか。28-29a節、大胆な宣教、多様な宣教につながっていく。

 

私の腕時計がある時、止ってしまった。時計の中を開けてみた。小さな小さな電池と、複雑に入り組んだ、小さな歯車で動いている。こんな電池がこんなに小さな、しかも多くの歯車を動かして、時計は時を教えていく。

小さな電池は、私の、キリストへの回心。小さな歯車は、教会の、回心したクリスチャンたち。この二つのおかげで、私たちはたゆみなく動き、証しできる。