2011年10月30日「どの国の人でも」兼松 一二師 : 使徒の働き 10章34‐48節

私は時々、東京にある神学校に出向きますが、その時、私と同じくらいの年代の男の人たちが集まって、お茶会をもちます。皆60代中盤ですから、それぞれの人生をもっている。それぞれの仕事をしてきた。長い年輪を感じさせるシワが目立ちます。60代中盤というと、電池が切れたように、もう消耗しきっているでしょうか。実は、こういう言葉がひんぱんに皆の口から出てきます。「こんな年になってしまったが、今になってやっと分った」「いや、ボクもそうです。今頃になって分ってきたことが色々ある」60代中盤になって、やっと分ってきたことがある。ある人はこう言った。「私は82歳になるが、82歳になって、聖書のすばらしいことが分った。」

 

34節「ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分りました』」

口を開いて言うというのは、重要なこと、重大なことを話すということです。ペテロは相当の高齢だったと思います。もう90歳ぐらいになっていたかもしれません。このペテロが「これで……はっきり分りました」今に至って、本当に大切なことが分った。その大切なこととは、34-35節「神は偏ったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受入れられる」ということです。神は偏ったこともなさらず、偏り見ることもしないお方である。このことについて今一度、理解を正しましょう。といいますのは、私たちは理想の上では分るが、現実には分っていないことがほとんどだからです。

 

第一に、ペテロはどうしてこんな高齢になるまで、こんな大切なことが分らなかったのでしょう。「神はどの国の人をも受入れる」という意味で偏らないということが、今頃分ったのですか?

どうして今まで分らなかったのか。答えは、外国人と接してこなかったからです。ペテロは年寄りになるまで、外国人と個人的に接したことがなかった。コルネリオという異邦人と接して初めて「神は……どの国の人であっても受入れる」と分った。私たちは色々な類の人たちと接して初めて「今やっと分った」ということが起ってきます。神は偏ったことをなさらないお方であるということを本当に分るには、色々な人、色々な国の人と接することです。いろんな人と接して、「なるほど」と納得することと「まさか」と思う意外なことが、どの人にもあることが分る。私たちは人と接しないで眺めているだけなら、表面的に見て、きれいな洋服を着て元気に活動している人を見ると「幸せな人」と判断し、病気になっている人、仕事をもたない人、よれよれの着物を着ている人などを見ると軽んじたりする。表面はどうであろうと、キリストと共にいるなら「キリストの恵は十分にあり、弱くても、キリストから力と喜びを満ち足りるほどいただく」。ともかく、色々な人と接して関わっていく中で、神さまはどの人にも恵みとあわれみを注いでいる事実を見る。

 

第二、神さまが、どの人、どこの国の人でも、すべての人に期待されたことがある。

36節、神はイエス・キリストによって平和を宣べ伝えた。神はどの人とも、どの国の人とも平和な関係を造ろうと、イエス・キリストを送られた。このイエスさまの歴史、ご生涯が、36-43節に記されている。

平和であるということは簡単なことでしょうか。ある方の体験です。田舎から東京に移って、都会の学校に入ることになった。ある初老の夫妻の家に下宿した。その老夫妻はいつもケンカをする。どなり声がきこえ、騒ぐ声がきこえ、食事を共にするが目の前で沈黙していたかと思うと箸を投げ出す。下宿していた青年は、たまりかねてそこを出た。「決して争いのない家庭を造ろう」これがその青年の一生のモットーになった。さて結婚して、夜は早く寝る、朝も早い。日中は外に出て働く。家族サービスもする。平和な状態を保つためには、代償がたくさん必要でした。私たちの国も、いま平和な状態ですが、この平和な、平穏な状態を保つのにどれほどの代償を払っているか。沖縄問題が平和の代償になっている。

神さまは、"平和な状態を保つこと"でなく、"平和な関係を造ろう"とされた。その代償は何か。平和を崩す罪を解決するため、イエスさまが十字架につけられ、私たちの罪の償いをして下さった。罪のないイエスさまが私たちの罪のために身代りの犠牲になり、私たちの罪を赦し、神と和解させようとした。私の心は神さまとしっかり結びついて安心です、勇気が湧いてきます。これが神と和解した平和な関係です。神さまとひとつになっているから大丈夫である、というこの思いは、43節、イエスさまが私の過ち、罪を赦してくださっているということを信じることと結びついている。神さまは、どの人にもこのイエスさまによる罪の赦しと平和の関係を造ろうと、道をつけられた。

 

第三、平和は罪の赦されることと結びついており、これを現実のものとしてくださるのはイエスさまであるが、私たちが採らなければいけないことがある。43節「イエスさまを信じ、イエスさまが私のためになして下さったことを信じる」ことです。信じるということの力と性質をしっかり理解したいと思います。信じなければ、平和な関係といっても絵に描いた餅です。教会に足は運んでも、平和でない、平安でもないのは、イエスさまを信じ、イエスさまが私のためになして下さったことを信じていない。

「信じる」とは、聖書に差し出されているままのイエスさまを、まっすぐに受け取ることです。先日、あるスーパーへ行った。トーフ35円、タマゴ10個入り1パック95円、とあった。えっ、うっそー。他のスーパーでこのサイズのトーフ80円、タマゴ186円。疑った。「これ賞味期限がないのでは?」疑う間、手にとらない。試しに賞味期限をみると一週間ある。どうして安いんだろう。疑う間、手にとらない。ある人の、安くておいしいから買おう、その声に乗って買った。手にして、家で食べるとよかった。安くて、おいしくて、栄養になって。信じるというのは、手にすること。素直に受け取り、心に入れること。聖書に差し出されているままのイエスさまを、まっすぐに受け取ることです。すると喜びになり、力になる。みことばの現実、神の現実をみる。信じていることを確実にする。

そのために洗礼を受ける。信仰のあかしです。