2011年11月6日「いのちに至る悔改め」兼松 一二師 : 使徒の働き 11章1‐18節

ある教会の牧師が、日曜日の礼拝のお話で、次の週も、その次の週も、同じお話をくり返し話された。結果的に18回、同じお話をした。教会に来た方が「どうして同じお話ばかりするのですか」と問うと、牧師は「この話は大切な話なんですが、大切なこととして聞かれていないからです」と答えた。

使徒11章1-18節は10章のくり返しです。どうしてこんな長い記事を繰り返しているのか。とてもとても大切な、重要なことだからです。では、何が大切なことなのか。

 

第一、キリスト教会はユダヤ人から始まったが、最初、教会はユダヤ人という民族主義的なものを超えられなかった。1-3節、ユダヤにいる兄弟たちと異邦人、割礼を受けた者たち(ユダヤ人)と割礼を受けていない者(ユダヤ人ではないクリスチャン)が出てくる。イエスさまはユダヤ人の中に生まれ、そして弟子たちをユダヤ人の中から選ばれた。イエス・キリストを信じ、従う人をクリスチャンと言うが、クリスチャンであっても、民族主義的な偏見があった。

2節「割礼を受けた者」は、使徒たちではないが、ユダヤ人クリスチャンです。この人たちは民族主義の考えが強い人たちです――私たちは先に神に選ばれた者です。私たちは聖書(旧約聖書)を与えられて、聖書から長年にわたり、よいものを身につけてきた民族です。神のことばを受入れたあかしとして割礼を身に受けた民族です。それに比べ、今クリスチャンになったばかりの外国の人たちは、まだ聖書も読んでいない。食べ物についての考えも違う。ユダヤ人は汚れた生きものは食べない。きよいものしか食べない。しかし割礼を受けていない外国人は汚れたものを食べている。そういう他民族と接したくない。他民族と食事を共にするなんて。

今回、木~土曜に宮崎県北の日之影キリスト教会へ慰問伝道しに行く途中、高森という町に途中下車した。ひとりの90歳のおばあさんに出会った。その方はこう語ってくれた。「私はこれまで肉は食べたことがない。ここで生れてずっとここに居る」どこにも行ったことはないのかというとそうでない。外国旅行をしている。「私はインドへ行ったことがあるが、汚くて三日間インドにおる間、食事を取らなかった。あの国は汚い。左手で用を足し、右手で食べる。」実は、ユダヤ人クリスチャンはそういう思いを、この時に感じていた。

本来、神さまを知っているなら、1節「異邦人も神のことばを受入れたということを聞いた」なら、大喜びするはずです。聖書をしっかり読んで、よいものを身につけていたのなら、「あの人たちも聖書を、神のことばを受入れた」ときいたら、「よかった、よかった。彼らも幸福をつかんだ」と祝福するはずです。ところが、喜んで祝福するのでなく、非難したのです。

 

第二に、私たちはこんなとき、どう対処したらよいのか。

4節、ペテロのしたことに自分の身を置きたいものです。「なぜ彼らと一緒に食事をしたのか」の問いに、聖書から答えることもできる。「異邦人と一緒に食事をしてはいけない」と聖書のどこにも書いていない。そんな小さなこと、狭いことで、歪んだ心でどうする。もっと広い心をもちなさい、と。ところが、ペテロはどう答えたか。「事の次第を順序正しく説明した」。今この人たちと親しくしているいきさつを順序立てて説明していく。このことが、もっと神さまの心にかなった対処のしかたであると言えます。事の次第が5-17節に詳しく説明されています。

5-10節では「天からの声」を聞いた。大切なのは9節の天の声で「神がきよめたものをきよくないなどと言ってはならない」。これは、イエスさまの十字架の犠牲によるものです。罪の赦しときよめはすべての人にあてはめられている。先ず、イエスさまによって私は罪赦された。これはありがたい。この経験がありますね。しかし、私だけがイエスさまに赦されているのでない。自分が毛嫌いしていた異邦人の罪をも赦している。私たちは、自分だけが神の目にとまっていると思っているが、実はこちらの方もあちらの方も神の目にとまり、きよめられる。

11-15節、ちょうどその時3人の人が私の家に来られた。その3人は何を言ったか。13b-15節、ペテロの家に行きなさい。ペテロを招いて救いのことばを話してもらいなさい、との天使の知らせがあった。クリスチャンは救いのことばをもっている。そういうクリスチャンを招きなさい。「私は救いのことばをもっているのだ」と自覚させられました。そうだ、クリスチャンはイエスさまの救いのことばをもっているんだと奮い立って、イエスさまの救いのことばを話した。

15節、イエスさまを信じます、イエスさまを受入れます。これからイエスさまに従っていきます、という回心が起った。

イエスさまのこと、イエスさまの十字架のいみを話したら、この人もあの人々もはっきりと信じ、回心が起った。17-18節、この結果をみたとき「主が聖霊のバプテスマを授ける」ことを思い出した。私たちがイエスさまを信じていることは「聖霊のバプテスマを受けること」また17節「神がくださる賜物」です。私たちの人生の中で、この方と出会ってよかった、ということが最大の幸せ、最高の賜物ではないでしょうか。神のひとり子イエスさまを知ってよかった。イエスさまを信じてよかった、という事は、神からの賜物です。

 

事の次第の説明をうけた結果、ペテロを非難した人たちはどういうことになったか。

18節、沈黙した。これはどういう意味でしょう。ペテロを非難した人たちは、何か言い返したいが言い返せないで、心の中でイラ立ったということか。または「ホーなるほど」とうなずいたということか。否、一瞬考えた、ということだ。

18節「神は異邦人にもいのちに至る悔改めを与えた」と言って神をほめたたえた。」いのちに至る悔改めとは、悪いことをしてしまった、という感情ではない。真理を求める方に、心が変えられるということです。自分を生かしてくださる方に、心が向いていくということです。

 

私がインターンで岡山にある教会へ行った時、こんなご年輩の方に会った。その方は以前、大酒飲みでした。毎日、外で酒を飲んできて、遅く家に帰る。家では奥さんが迎えてくれる。「おかえりなさい」とお辞儀をして迎える。着替えて布団に入ろうとすると、必ず枕元に聖書が置かれていた。奥さんはクリスチャンです。ご主人は「酔っ払っているワシに聖書を読めというのか。しゃらくせえ」とつっぱねた。この奥さんは、早く亡くなられた。亡くなってから、ご主人はそろりそろりと聖書を読み始めた。最初は奥さんの面影を心に浮かべながら読んだ。読んでいるうちに、ついに、奥さんの信じていたキリストに至った。信じた。そして祈った。「おれもキリストを信じたよ」

 

悔改めというのは、自分の悪い感情、思いを捨てるというより、自分を生かし、あわれんで下さる神に心が向いていく、ということです。

こういう人が加えられていくことを喜んでいく。