2011年11月13日「バルナバという人」兼松 一二師 : 使徒の働き 11章19‐30節

時々不思議なことがある。教会の敷地に小さなドングリの木が芽を出していた。どうして、誰がここに?と思った(それは抜いて捨てたのですが)。よく考えて、ピンときた。鳥が、もしくは風が運んだのかもしれない。人間の考えで庭を工夫しようとし、人間の手で苗を植えて育つのが、今ある木や花のすべてでない。人間の手によらなくとも、あるいは人間の考えでは及ばないことでも起ること、生じてくることがたくさんある。

 

第一、19‐21節、教会の進展もそうです。

計画的に考えて、話し合って協力したら、教会は前進するのか。意外なことに19節「迫害で散らされていった人々は……ユダヤ人以外に語らなかった」迫害された人々は、福音、イエスさまのことを語らなかった。なぜか。信仰をもっていたために迫害されたので、恐怖から語らなかった。また、この人々には福音のことを話しても分らないだろうという、他の民族に対する偏見から語らなかった。

語らないなら、イエスさまのことは広く知らされないことになるではないか。しっかりした長い信仰歴のある人々が、内輪では何やら話し合っているが、外に向かって、他の人々にはイエスさまのことを語らない。しかし20,21節をみると、他の人々が、まだ教会ということも知らないがキリスト教というものを聞いて日の浅い人々が話し、それが広まって、アンテオケまで届いた。ここで大勢の人が信仰をもった。神の御手も働いた。

 

第二、バルナバのことを見たい。

22節、エルサレム教会にニュースが届いた。アンテオケにひとつの群ができた。そこでエルサレム教会は重要人物をアンテオケに派遣する。古い教会の役割を教えられる。新しい教会が生じてきたとき、正しい信仰をもっていくように導きをすること。人々が急にたくさん集まっている所というのは、いい加減なところがある。サタンは教会に働いて、福音の教えを曇らせよう、教会を教会でないように腐敗させようとする。他の教会が正しい信仰に進むように祈り、取り計らわなければいけない。

また27-30節、母教会は迫害で散らされて人がいなくなった。経済的に困難になる。そこでアンテオケ教会という新しい、力ある教会が、弱った母教会を経済的に支える。このように教会はひとつだけでなく、いくつかあって相互に励まし、支え合い、導きをするという関係をもって、この世で教会の福音宣教の役割を果たしていかなければならない。

バルナバは教会と教会を結び合わせていく立場の人。そして新しいアンテオケ教会の進展に力になっていく人です。

バルナバというのは、4章36節より元々「ヨセフ」で、バルナバはあだ名、ニックネームです。人の慰めになる人、人に慰めを与える人、助けられ、ホッとする人です。そういうことで、このニックネームがつけられた。

 

23節、ここにバルナバの健全な信仰を見る。「主の恵みをみた」この教会に入ったとき、イエスさまの恵みを見てとった、という信仰の感覚がある。そして恵みを見て喜ぶ。人を見、教会を見て、あそこが悪い、ここが悪いと見るのは悪人の業です。人を見、教会を見て、ここが良い、あれが良いというのは善人の業です。しかしバルナバは、人々を見、教会の中を見て主の恵みを見た。恵みを見て喜んだのは、霊の人であり、その信仰が健全で生きている、信仰者です。

そしてバルナバは、信仰の励ましをします。「心を堅く保って主にとどまることを常にしてください」私たちの心は熱し易く、冷め易い。ひどいのは今日イエスさまを喜んでいたのに、次の日は冷え切ってしまう。半月はよかった、半年はよかったが、そのあとは冷めてしまった。「心を常に主に向け、イエスさまは信頼できる方、真実な方、光を下さる方です、と心から判り、イエスさまへの信仰の根がしっかり張るように」と励ました。

 

24節、バルナバは「立派な人」でした。立派というのはἀγαθὸςということばで、「正しい人」とは少し違う。立派な人、善なる人というのは、正しいが、正しくて、しかも憐れみと愛に満ちている人という意味です。4章27節、貧しい人に与える。人に与えるというのは貧しい人を労り、愛する、憐れむ心がある。正しいことを言って人を切り倒したり、正しいことを言って人を助けない、人の力にならない人は、善なる人でない。イエスさまを裏切ったユダも、正しいことを言ったが、言う人は正しい人でない。正しさに加え、人を労り愛する人となろう。そうすると教会が慰めの場になる。

 

25-30節、バルナバは、若いサウロを育てていく働きをした。9章26-27節、ライオンかトラのようなサウロを、サウロが回心した後に教会の中に受入れるように取り計らったのも、バルナバです。今バルナバは、このサウロをアンテオケ教会にしっかり結びつけて成長させようとし、サウロを捜し、見つけ、説得してアンテオケに導く。これからサウロは広い伝道をしていくが、サウロの拠点はアンテオケです。

27-30節、バルナバはサウロと大事なことを共にして、サウロを育てていく。

 

バルナバを軸とし、サウロがおる。そしてそこに新しい人々が集ったとき、周りの人が、この群を何と呼んだか?「キリスト者」言語は「クリスチャン(Χριστιανούς)」です。クリスチャンというのはあだ名です。アンテオケの地から、クリスチャンという名が広められるようになった。あなたクリスチャン?といわれ、どういう思いがありますか。誇りですよ。キリストの弟子である、キリストのものである。すべてはキリストのことばに従い、キリストに栄光を返していく、キリストの香りが漂う人という意味です。

現代のバルナバになろう。