2011年11月27日「教会の力は祈り」兼松 一二師 : 使徒の働き 12章1‐17節

夕にテレビを見ていると、「緊急地震速報」が流れてきます。「また地震だ」。日本列島全体が不安な日々です。私たちはこの世におる間、次から次へと問題が起り、悩みがつづきます。

初代教会も、問題の連続でした。

 

11:28世界的な大飢饉、12:1-2教会への迫害、こうしてエルサレム教会は、形は残っていくが、もうほとんど聖書の中には出てこなくなります。ですから12:1-2のエルサレム教会へのこの迫害は、教会へのとどめの一発となったとも言えます。

第一、そもそも12章に見る迫害はなぜ起ったのか。1-4節、ヘロデ王の権力への欲望から迫害が起ったのです。(ヘロデは聖書に同じ名前ながら別の人で、何度か出てきます。ヨハネを殺したのはヘロデ・アンティパスで、12:1ヘロデの祖父に当る)ここに出てくるヘロデは、ヘロデ・アグリッパ王です。王は社会が平穏である(暴動が起きない)ばかりでなく、3節、ユダヤ人に気に入られる、つまり支持されるように願った。ユダヤ人パリサイ派に尊敬され、賛同され、自分を支持してくれたら自分の権力は確かになる。そのために、ユダヤ人パリサイ人が最も憎んでいるキリスト教に目をつけたヘロデは、キリスト教会を迫害し、つぶしにかかったのです。

1節「王は……その手を伸ばした」王が権力を振りかざした。王の一言で、国が動かされる。軍隊が動かされる。王の一言で多くの人の生命が失われていく。王の考えで国全体が動かされる。しかし3節、王は民衆の支持がなければ、その権力は危ういものです。このことを私たちは深く、現実的に、考えていないといけない。私たちの支持がなければ、王は権力を振りかざせないんだという理解を深め、気構えをもっていないと危険です。どんな時に危険なのか。王の位についた人が強い権力を持ちたがる時です。あるいは、他の国からの圧力が強まる時です。

ヘロデはユダヤ人の支持を得たら自分の権力は絶大になると考え、ユダヤ人の目の仇となっているキリスト教会を苦しめた。2節「ヘロデはヤコブを剣で殺した。」人の血を流してまで、ヘロデは人の気をひこうとした。殺されたヤコブはイエスさまの信頼した弟子です。そして今、教会の柱です。そのヤコブを殺していく。しかし神さまにとって、この血は尊い。

 

第二、この迫害の中にあって、教会は何をしたか。

4-5節、私たちには迫害がなくても、社会の中でクリスチャンというのはどんな存在でしょうか。私はある時、ひとつの絵を見て考えさせられた。小さな小さな子どもが、ものすごく大きな建物に向かって叫んでいる姿です。その巨大な建物の陰で、何やら裏取引をしている。その絵の下に短いコメントがあった。小さな子どもはクリスチャンで、巨大な建物の群は、会社、国家である。私たちクリスチャンは小さな子どものように小さな存在で、会社とか社会とか国は考えられないほど大きい。私たちは現実に何も力がない。と思いこんでいる。

しかし4-5節、教会には力が隠されている。その力を使わなければいけない。それは祈りです。祈りの力は測り知ることができないほど大きいものです。確かに社会の力も国家の力も途方もないほど大きく強い。しかし祈りの力はそれを遥かにしのいでいます。祈るとき、祈りを聞いて叶えてくださる神に絶大な力があるからです。

祈りを力あるものにするのは、

ひとつ、4a節、同じ信仰をもつ兄姉が不当にも苦しめられているのを知ったとき、「私の霊の兄弟が不当に苦しめられている」心の痛みを感じて祈ることです。私たちは自分の父母、兄姉にどれほどの同情をもっているか。同じように、同じ信仰をもつ人が苦しんでいるのを見て深い同情や心の痛みをもって祈るとき、祈る私は苦しみの中で信仰を言い表すのです。

ふたつめ、4b-5節、ペテロは死刑執行日が定められていた。しかし、神に熱心に祈りつづけることです。「熱心に」とは「根気強く、たゆまず」祈りつづけた。もうだめだ、どうすることもできないというときにも根気強く祈ることだ。神さまの働く時というのは、ギリギリの、人間の限界、極限を迎えたときです。この教会堂を建てて頂き、支払いのお金がなかった。その年の7月31日が支払日でした。7月初めにまだ4000万円支払いが残っていた。色々と工面して1000万円が揃った。あと3000万円が足りない。どうすることもできない。ともかくここに来て祈った祈った。すると7月27日、3000万円が揃った。それで7月28日、会社へ電話をし支払った。そのあと私は考えた。「神さまはどうして一年前から、お金の不足がないように揃えて下さらなかったのか」神さまの働きはいつも人間の限界を超えてギリギリになったときにスタートする。それは神の力を見せるためです。

みっつめ、12節「集まって祈っていた」。集まる場所が知られると、そこに迫害の手が及ぶ。そんな危険な中でも信者が集まって祈るのは、一本の糸は切れやすいが、三本の糸が縫い合わされると強い力になるからです。主イエスさまが「二人または三人、わたしの名によって集まるところにわたしもいる」といわれた意味は、三本の糸が合わされると、励ましと力付け合いが出るからです。祈りの力は計り知れない。

 

第三、祈りを聞き入れる神さまの働きを見よう(6-11節)。

7節、神は御使いを遣わした。光を照らした、ものごとが見えるために。鎖を解いてくださった、あなたを縛るものが何もなくなった。10節、門がひとりでに開いた。11節にまとめられている。

9節、神が働かれることは「現実のことだと分らず、幻を見ているのではないかと思う」ほどです。「現実のこと」とは信じられないこと、つまり私たち人間の普通のやり方とは全く違う。

 

私たちの普通のやり方とは何だろう。昨日やったことを、今日も同じことをやる。同じことをやっていれば大丈夫というあり方ではないか。去年までこうやってきたから、今年も例年通りする。しかし、あるクリスチャンの方がこう言った。「私の生活は日々奇跡だ」祈って毎日セールスをしている人です。神の働きは日々新しい内容で表わされていく。神に祈って取り組んでいく人に!