2011年12月4日「ヘロデの高ぶり」兼松 一二師 : 使徒の働き 12章18‐25節

先日ある牧師から手紙をいただいた。その中にユーモアのあることばが記されていた。「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、まさかの坂。このまさかの坂には私たち誰もがぶつかります」

 

今日の箇所、ヘロデ王にとって18-19節は「下り坂」です。20-22節は「上り坂」です。登りすぎて23節「まさかの坂」。24-25節には、教会の「まさかの坂」が記されている。

 

第一、ヘロデの下り坂(屈辱)18-19節。

18節は、1-17節を読んで判るが、1-4節でヘロデが自分の権力の支持基盤を図り、権力の拡大を考えて、ユダヤ教の気に入るようにキリスト教を迫害した。ペテロを投獄もした。そして刑の執行をしようとしたその朝、ペテロが牢獄にいなかった。牢の番兵は何をしていたのか。こんな場合、どうするのか。当時の社会のルールだったローマ法では、囚人が脱走した場合、番兵の責任が大きく、番兵が刑を受けた。番兵が、囚人の受けるのと同じ刑を受けることになった。

しかし、番兵の最終的責任はヘロデにあった。ヘロデは刑を受けることはなかったが、社会的には責任者として失敗したとレッテルを貼られて、首都エルサレムには居りづらくなり、地方都市のカイザリヤに下って、もう首都を見ようともしなかった。自分の権力を拡大しようと思っていたのに、部下の失敗から物笑いとなり、辱めを受けた。

私は会社に入ったころ、一番の楽しみは給料日でした。ところがある時、わたしと一緒に入社した友人が「兼松、お前はどれ位の給料もらっている」と尋ねるので明細書を見せた。すると友人に「兼松、お前は僕よりも低いんだな」と言われ、ショックを受けた。どれどれと言って友人の明細書を見た。確かに私より1000円多い。これでショックダウンでした。更に悪いことに不景気が起り、会社の1500人ほどが首になった。辛うじて私は守られたが、そのため責任感の強い課長には(部下の首をきった後に)やめた人もいた。当然、私の給料も下り坂となった。下り坂を行くときは辛く、みじめで不安なものです。

ところで、ヘロデはここで大切なことを見失っている。牢に拘束されていたペテロがいなくなったのは、ペテロの脱走ではない。神がペテロを連れ出したのである。ヘロデは神の業を考えなかった。神さまは必要とあれば、ある人を奇跡的に動かし、考えられないことまでされる。これが分ればヘロデには不安も恥もない。ただ神への畏れだけが出てくるだろう。

 

第二、20-22節、ヘロデの上り坂です。

周辺の国ツロとシドンとはもともと敵対意識があった。ツロもシドンも経済的に栄えている国でしたが、28節、大飢饉があって、カイザリヤからの食糧支援を必要とした。それでヘロデに和解を求めてやってきた。和解、仲直りを求めてきた時、ヘロデには大きな上り坂の機会となった。国と国が和解しようとしたとき、和解の調停者は歴史に残るし、世界の尊敬の的になる。和解の条約を結ぶその日、21節、ヘロデはこの時が自分の晴れ舞台の日と考えて、王服を身につけ(この服には銀のより糸が織り込まれて、太陽の光を浴びるとまぶしく見えた)そして何やら演説を始めた。

22節、「民衆(おそらくツロとシドンの人々だろう)は、『これは神の声だ、人間の声ではない』と呼び続けた」演説の内容がすばらしいから言ったのか。それなら内容が記録されたであろう。演説の内容の素晴らしさでない、おそらく、ツロとシドンの食料の欲しさから王にこびて、おだてるために言ったのでしょう。人におだてられて得意になり王様ぶるのは本物の権威者のあり方だろうか。人のお世辞を受けて得意になるのは、賢い、心の明るい、頭の明るい王の姿だろうか。ヘロデは名誉挽回の時に、調子にのりすぎたのである。私たちも、上り坂の時、調子にのりすぎる時、自分の考えは絶対である、他の人の考えは間違いだらけでくだらないと思いこむとき、罪を犯す。

本当に賢い人は神さまを見て、人を見る。人を見て、神さまを見、神さまに人を結びつけていく。自分をあがめ、自分の考えに得意になっていくときは、神さまのことも、人のことも考えない。自分の考えが何よりも正しいと自分に酔いしれてくる。上り坂を上りすぎた姿である。

 

第三、まさかと思うことが起った。

23節、まずヘロデの身の上に、まさかと思うことが起った。主の使いがヘロデを打った。どういう方法で?「虫にかまれて息が絶えた」。王が敵の銃弾で殺されたというなら名誉ある死に方である。小さな虫、毛虫か何かにかまれて毒がまわり死んだ。これは物笑いになる死に方です。「神に栄光を帰さなかったからである」

 

では私たちは神に栄光を帰しているか。私たちは神に栄光を帰していかなければならない。神に栄光を帰しているあかしは何か。24節、私を通し、神のことばが盛んに発揮され、神の力が自分を通して発揮され、神のことばが広まっていく。私を通し、周りの人が「聖書に書いてあることは、今でもとても重要なんだ。君をみているとキリスト信仰を侮れない」と話してくれるなら、私たちは神に栄光を帰していると言える。

そうさせてくださいと主に祈りましょう。