2012年1月1日「いつまでも主のみ言葉に留まろう」兼松 一二師 : 使徒の働き 13章42‐52節

新しい年が始まりました。この年をよい年にするために、心に留めておきたいことがあります。

43節「いつまでも神の恵みに留まっているように」というこの言を、いつも、また折あるごとに思い出しては、心に留めておきましょう。

 

42-44節はひとまとまりの内容です。45-52節はもうひとまとまりの内容です。

第一に42-44節、そもそも神の恵みとは何でしょうか。37-38節、私たちがいつも聞いている内容です。イエスさまは死から甦った、朽ちることのない方です。私たちが信じ、信頼するイエスさまは朽ちるお方ではない。私たちがガッカリするのは、ある一時期に華やかに盛り上がるが、わずかの間でしぼみ、朽ち枯れていくことです。この正月、特に芸能人は華やかで、私たちの心に喜びや笑いを与えてくれる。しかし、テレビに出なくなると忘れられてしまう。スポーツ選手も、すぐれた選手は何年か夢を与えてくれる。しかし、しぼんでしまい、影もなくなってしまう。私たちの志でさえ、数年は続いても、しぼんでしまい、意欲もなくなってしまう。

しかし、私たちの信じるイエスさまは、死から甦って朽ちることはない。ますます輝き、その力は衰えることなく、ますます進展していく。

その上、私たちの信じるイエスさまは、38節「あなたがたに罪の赦し」を与えられる。

 

主の罪の赦しの恵みはますます威力を発揮してくる。罪の赦しをいただいた人は、私も人の罪を許していこう、と考える。罪が赦されると分ると、本当の意味で詫びることができる。赦しがあってこそ成長がある。この神の恵みに、いつまでも留まっているように!なぜこの勧めがなされたのかというと、理由がある。ある人たちは神の恵みを信じて生活している私たちを責める。「信仰がなくても、一生懸命努力し多くのよい結果を出し、多くの人に慕われ正々堂々と生きて、後の事まで考えて生きている人がいるじゃない。それに比べあなたは教会に行っているのに小さなことで騒ぎ、お金のことでは細かすぎ、借りたものは返さず、体裁だけで生きているようで、全然気が休まりません。あなたと話していて、意欲が湧いてこない。神の恵みを信じて生きるというのは、そんなものなの」私たちの悪いクセを指さして、私たちの信仰を責めてくる人たちがいます。私たちは、神の恵みの光に照らして、自分の悪いクセを治していかなければいけません。いや、神の恵みのあるところでは、悪いクセが消え、健全なあり方に変えられていく。神の恵みのあるところでは、臆病で心の小さく狭い者だったのが、善きことに大胆になっていきます。

 

神の恵みをどのようにして体験するのか。44節「次の安息日には……神のことばを聞きに集まった」神のことばを聞こうとする心は神の恵みをいただく。神のことばを聞いて、仕えていくとき、神の恵みを見ていく。神のみことばの通りに生活していくとき、誰が私たちを責めるだろうか。

 

第二に45-52節、ここを見ると、45節にユダヤ人、46-47節にパウロとバルナバという伝道者たち、48-49節に異邦人、50節にユダヤ人、51-52節に伝道者たち、という風に三種類の人々が出てくる。

 

(1)ユダヤ人です。45-46節、ユダヤ人は誰よりも先に、神のことばを聞いた。神のことばは、どんな教えよりもたくさんの知恵のあることばです。申命記、ヨブ、詩篇、箴言、伝道の書を見ると、わんさと知恵をいただく。神のことばは神の愛を教える。福音書、牧会書簡、ヨハネの手紙をみると神の愛の深さを教えられる。神のことばは私たちに希望を与える。預言書、イザヤ書の40-66章は、まさに希望と慰めを与えてくれる。こんなことばを誰よりも早く聞いたのはユダヤ人です。しかし46節、聞いたのに、従わない。心に受入れなかった。それが自分をふさわしくないものと決定してしまった。

ユダヤ人の心は、何を考えていたのか。45節、群衆を見た。人を見た。「ねたんだ」というのは自分に熱心だったということです。自分がいかに人に立派に見えるか。人に自分を立派に見せることに熱心だった。実はそれが人に嫌われた。すると50節、伝道者たちを迫害させた。人に裏で働きかけていく。

 

(2)異邦人です。48節、神のことばを聞いて、喜んだ。信じた。受入れた。人が心に神のことばを受入れていく、そのことは、地域の人々に神のことばが受け入れられていくことになっていく。

これが生命に定められている、神に受入れられているしるしであると理解していく。人の態度と神の心は連結している。

 

(3)パウロとバルナバという伝道者です。二人の伝道者は46節「神のことば」を人々に届ける働きをする。伝道者は神のことばといつも一緒でなければいけない。今日、このパウロとバルナバの立場に、自分を置いて考えましょう。そしてこの一年、自分のあり方をパウロとバルナバの立場に置いて考えていこう。神のことばと一緒に歩んでいる。神の恵みに留まるためです。

 

神のことばを語ったところが、思うように上手くいかないことがあります(45,50節)。思い通りにはいかない。神のことばを受入れない人、受入れる人と様々です。受入れてもらえない。そこで心が沈んだか。否。46b-47節、新しい使命が与えられている。ユダヤ人が受け入れない。異邦人に向かうように。全く新しい方向に用いられる。神のみことばと一緒に生活していくとき、この方向では拒まれても新しい方向で神は導いてくださる。

52節、神の言と共に働くお方がいる。聖霊です。

 

ある友人から手紙をいただいた。この方は若い時、何をしたらよいか分らなかった。風来坊のように旅をした。自分は何をしたらよいのか。ヨーロッパも旅をした。6年間旅をし、ついに見つかった。クリスチャンの施設で、毎日聖書の話を聞いて、日中は畑作業や家の修理をする。これをしよう。そして日本に来たが、簡単なことではなかった。私たちと6年間一緒に働いた。ここから出て岐阜の山中へ。そこもダメ。北海道の広い所でやった。失敗した。ことごとく失敗し、どうしたらよいか、そのとき子ども5人と奥さんで旅をした。どうしたらよいか。ついに支えてくれる人が見つかり、山梨県で、聖書を毎日話し、宿泊施設を小さいながら立てた。25年位になります。

思い通りならなくても、みことばと共に歩むとき、神さまは聖霊を遣わし、新しい使命を与え、しかもまだ主を知らない人々の光として用いてくださいます。