2012年1月8日「福音になぜ反対なのか」兼松 一二師 : 使徒の働き 14章1‐7節

もし、私たちが被災地に行くとしたら、何をするだろうか。

 

第一、私がどこにあっても、どの人に対してもなしていきたいこと。

1-3節、祈りと共に「話をする、語りかける」ということです。悲しむ人が目の前におるとして、その悲しむ人を神さまがひきうけて下さるように祈りたい。苦しむ人を神さまにひきうけていただきたい。助けを求める人の、自分も何か助けになれるように、そのことと共に、神さまがその人を助けて下さるように祈る。祈ると共に「話をする、語りかける」。

 

この「話をする」λαλέωというのは、こんな意味も含んでいる。私たちが毎日見ているものに空がある。空を見るとき、雲が色々な形をして毎日、いや刻々と形を変えていく。ある人は雲の変化から、色々なことを語りかけられているように感じる。無生物ですが、この、空の雲が語りかけるというのは、ことばを超えて、魂に力ある語りかけ、励まし、心底からの支えになることをいただくように感じるということです。つまりλαλέωは、目の前にいる人に意味のある、役に立つ、効果あることを言うという意味です。この「話をする」ということが、3節の「語った……御恵みのことば」と同じ内容です。「神さまの恵みのことば」を語るとは、神さまがイエスさまを通して私たちを恵み深く取り扱うことを知らせることです。

 

自分の思い通りに、自分勝手にやってきた結果、いつも人を押しのけ、罪なことばかりし、そして悲しみ、不安になり、それは破滅でした。それは間違いでした。神さまのことを計算に入れない人生は闇でした。

そのような方々に、「神さまはイエスさまを通して罪を赦し、恵みによって義(ただ)しいあり方を私たちの中に造って下さる」そのことを知らせる。7節では「福音の宣教」ということばに言い直されています。

 

私たちは、どこにあっても、つまり教会でも、家でも、自由な時でも、この話をする。恵みのことばを語る。福音の宣教をして、共にいる人、目の前にいる人を励まし、恵ませていきたい。

しかも3節「長らく滞在して」、7節「福音の宣教を続けて」いきたい。

 

ある壮年の方の話です。職場で、「先輩、相談にのってもらえませんか」と言われた。仕事のこと、家庭のこと、あまりうまくいかない……。そのとき、この方はポケットから小さい聖書を出し、赤線を引いて、そこを伏せて「ちょっとトイレに行ってくる」と行って戻ってくる。相手は線を引いた箇所を見ていた。「実は、先のことについて、この本でこんなことが書いていある。どうだろうか」こうして何年も導き、何人もの人をキリストに導いている。語りつづける、主の恵みをとりつぐんだという思いで続ける。こうして人を恵ませてい行きたい。

 

 

第二に、人間の反応です。

1b,2,4-6節、人の反応は二つある。私たちは、初めて福音を聞いたとき、どういう反応でしたか。今はどうですか。

神さまの恵みのことばを聞いたときに、1b節、恵みのことばを聞いてイエスさまを信じた。信仰に入った。私たちもみことばに教えられているイエスさまを信じているが、信じてきて、ますます判ることは、イエスさまを信じてきて「よかった」ということです。

 

一般的に考えて、信じられる家族がいる人はノビノビしている。元気がいい。信じられる人がいない人はいつも人を警戒している。疑っている。心の中を明かせないでいる。信じられる方をもっている人は3節、大胆な進み方をしている。

 

(A) 「信ずる」(πιστεύω, 信頼、信用すること)イエスさまを信じて、聖書に従ってきている人は長年、何が信頼されることであり、何が信用されることなのか体で覚えていく。そのため、何をしてよいのか確信がもてる。自分が何をしてよいのか確信をもてることは、イエスさまへの信仰生活の積み重ねの結果です。

 

(B) 「信ずる」ということは「おまかせする」こと。自分の考えではどうすることもできない、自分の力ではどうすることもできないが、どうすることもできないことに関わっていかなければならないことがある。その時、嘆くのでなく、投げやりになるのでもない。考え深く、イエスさまにお任せしていく。あるいは自分が信頼する人におまかせしていく。自分は自分の役割を果たしていく。ある面では私に任せてくださいと言っていく。これを信仰によってよくわきまえていく。イエスさまを信じている生涯には、このように豊富な内容がある。そこには喜びがある。

 

 

もうひとつの反応は、2,4,5節、信じようとしない人々です。

どうして信じようとしないのか。この「信じようとしない」ἀπειθήσαντεςには「あなたなんかに教えを請う必要はない、教えを受け入れて従うことはしたくない」という意味が込められています。つまり、信じようとしないということは、自分は優越しているという意識をもっていることのあらわれのようです。そんなことを教えられなくても、私は立派に生きていますよ、という自意識がある。確かにイエスさまの恵みのことばを信じようとしない人が優れていることがある。理科、数学、コンピューター等の知識、医学、建築学、世の中のほとんどのことがらについて、そうかもしれない。しかし、それらの知識と技術をもっているということで優れているが、その知識と技術の用い方において優れて賢いでしょうか。

 

主を信じようとしない人々のふるまいはどういうことですか。2節、人をそそのかし(扇動し、人の心をあおる)、人に悪意をいだかせる。5節、人をはずかしめる。石打ち(ここでは危害を加えるということ)をしようとしている。信じようとしない人々のふるまいを見るとき「恥を知らない」ふるまいです。私たちの今の社会の中で、主を信じようとしない人「神の恵みのことばを教えられなくても、私たちは立派に、幸せに生きていきます」という人はこういう状態です。

 

結びとして、私たちの今の状況の中で、私たちがどうあらねばならないか。3節です。

信じようとしなくても「それでも……長らく滞在し、主によって大胆に(恵みのことばを)語っ(ていく)」

12月31日、私は一年を整理して考えようと思って、考えるヒントとして本を開いた。スポルジョンの「朝ごとに夕ごとに」です。表紙を開くと、1967年に牧師が私に下さった。その本は牧師が使ってきたのですが、あまり読まないから、私にあげるといって賜ったものです。私たちは甘い食物を食べたいと思う。甘くてスカッとしたものを食べたい時がある。私は心に甘くて、しかもひきしまった神の恵みのことばがほしいとき、このスポルジョンの本を読み続けた。神の恵みのことばを聞き続けてよかった。なぜ?「救われた」からです。今年一度でもよいから、皆さんの家庭に家族と共なる「主の恵みのことば」を語る時を下さい。なぜ?救われてほしいから。その上、語っていく中で不思議なよいことが起こり、恵みのことばの尊き力、真理が証しされていく。

 

3節を共に読みましょう。