2012年1月15日「宣教の展開」兼松 一二師 : 使徒の働き 14章8‐18節

さて皆さん、これまでの色々な事が記憶にあると思いますが、中には忘れることのできない思い出があると思います。ある方は沢山のことがあり、忘れることのできない思い出としてしぼりきれないと考えるかもしれません。

使徒の働き14章8-18節は、パウロとバルナバにとって忘れることのできない出来事ではないかと思います。

 5節でユダヤ人とユダヤ人の指導者は、使徒パウロとバルナバを迫害していくようになります。これは一度や二度のことでなく、ずっと続いてきたし、これからも続きます。そんな中で8-13節の途方もない経験をします。パウロとバルナバはすばらしいことをしてくれたということで、崇拝されそうになった。今までとは違うことが起こった。

 

第一、先ず8-13節、

8節、ルカオニアにあるゼウス神殿のそばに、生まれつき足のなえた人がいた。9節「この人はパウロの話すことに耳を傾けていた」一般に考えて、言葉がきこえるということは、光がさしてくるような感じがします。私は小さい頃、母から用事を言いつけられて、母の実家に行きました。ひと山越えて子どもの足で30~40分はかかる距離です。長さよりも、真っ暗な山の中を通っていくことが大変だった。帰るときに、真っ暗闇です。月の明かりぐらいです。こわい感じでした。真っ暗な中、誰かが向こうからやってくる。ますます怖くなってきた。急に声がした。私の名前を呼ぶ声だった。その声、そのことばは母の声だった。声がきこえたとき、心は急にぱっと明るくなった。声や、よいことばには光を感ずるものです。

 

9節のパウロの話は、聖書の話です。イエスさまのこと、福音のことばです。イエスさまの福音のことばに心から聴き入っていると、二つのことが生じてきます。礼拝で心から聴き入るとき、ひとつは信仰がつくり出されてきます。もうひとつは希望が出てきます。神さまからのよい知らせのことばを心から聴くとき、神さまへの信仰が湧きでてきます。また希望が生じてきます。心を開いて聖書の説き明かしを聴くことは、キリストへの信仰の始まりです。ローマ10章17節「信仰は聞くことから始まり」とある。使徒14章9節「いやされる信仰がある」とありますが、足なえの人はパウロの話を聞いて、心の中で受け入れていった。そしてその話からある希望をもち始めた。パウロはこの人の目を見た。その人は話したことに応答している。そこで10節、自分の足でまっすぐに歩け、というと、とび上がって歩き出した。ここで、いやしの奇跡が起こった。特別にすばらしいいやしがあった。

 

今日の箇所の問題点は、このすばらしいいやしの奇跡があったときの群衆の反応です。この町の人々は「神々が人間の姿をとって私たちの所にお下りになった」といけにえをささげようとした。バルナバをゼウスの神、パウロをヘルメスの神として拝んで、供え物をもってきた。

正しい信仰でこのいやしの奇跡を受けとめるなら「この出来事に神があわれみをもって臨まれた」と告白するのが正しい。ところが群衆はパウロとバルナバのすることを見た時、「この人たちは神々のあらわれだ」といけにえをささげようとした。つまり礼拝しようとした。これを偶像礼拝、偶像崇拝という。偶像礼拝というのは、神でないものを拝むとか、神でないものを神として礼拝の対象にしていくということです。

 

私は十代の時、正月、生まれ故郷に帰りました。正月の前、初めて自分のお金で聖書を買った。田舎に帰って聖書を読んだ。初めてイザヤ書を読んだ。44章9-20節。偶像ということばです。しかも、人が作った神(44:15)です。聖書を読んだその部屋には仏壇と神棚があった。目をとめた。まさしく、これは人が作った礼拝物、これは偶像だ。しかもやっかいなのは、この仏壇の内に何年か前に亡くなった祖父の写真がある。キリっとした顔の祖父の写真が祭られている。こうして死者礼拝が行われる。死者礼拝も偶像礼拝である。

この使徒14章では、特別に自分たちによいことをしてくれた、奇跡を起こしてまでよいことをしてくれた人々を崇めようとする。これも偶像礼拝です。生きていて、特別のわざをしてくれた人を絶対視し礼拝していくのは偶像礼拝です。12章21-23節、ヘロデは自分を絶対視している。自分には権威が与えられている。自分が演説した時、人々は喝采した。得意になった。つまり自分を絶対的なもののように思いこんだ。栄誉を自分に受け、自分がその立場に立っていく。栄誉は神さまにだけ帰さなければならない。これも自己崇拝で、偶像礼拝である。人からのほめ言葉には気をつけなければいけない。

偶像礼拝は、神さまへの大きな罪です。

 

第二に、14-18節、パウロとバルナバはこの群衆にどんな導きをしたか。

14節「衣を裂く」は神への罪であると嘆いたという表現です。15節「このようなむなしいこと」とは偶像礼拝です。自分たちに特別なよいことをしてくれたからといって、その人を祭るようにして礼拝することは偶像礼拝で、むなしいことをしているということです。

本当に礼拝されるべき方は「神」です。そのまことの神とはどのようなお方かを説いた。15b-17節に説明されている。15b節、神は創造主です。そして生きておられるお方です。

あるとき、出逢った方がたまたま私と同じ、目を患った人でした。その方はこう言われた。「目が悪くなり手術した。まともに見えない、歪んで見える」悲観して、泣いて言われる。私は「私も目が悪くなり手術した。左目は見える部分と見えない部分があり、疲れます」と言った。家族の方が「目が不自由なのに悲観しないんですか」と尋ねてきた。私は「私の生まれつきの目は神さまが造って下さったものです。それがある拍子で見えなくなった。腕のよい医者がこわれた所を修理してくださったが、神さまが造って下さったようには修理できなかった。人間の限界だと思っている。人間では神さまのようにはできない」ホー、という。いや、私の目の回復にも神さまは働いておられる。神は創造主で、生ける方です。

 

16節、これまでは、まだ神さまを知らない人々は自分勝手に拝むものをつくってきた。福音が伝えられるまでは神さまはそれをするままにして来られた。悲しいことですが、こういう自由があった。しかし宣教は、そこから神に帰らせることだ。ここに私たちが福音を、聖書の教えを伝えなければならない責任がある。

17節、ではこれまで、神は全くご自分のことを人々に体験させなかったのか。いや、恵みをもって、雨を降らせ実りを与え、季節を与え、食物と喜びで心を満たしてくださった。この所をご一緒に読みましょう。

神の恵は、どの人にも、どの国にも与えられた。畑に野菜や何かの種を植えたり、木を植えたりした事がありますか。肥料をやり、雑草をとり、剪定して実を収穫した時、喜んだでしょう。そして食べた。満足と喜び。しかも毎年、くり返し、この神の恵は尽きることなくくり返される。神の恵の継続。汲みつくしえない恵を下さった。

 

この一般恩寵から、さらに神の恵みを知ろう。特別恩寵を知ろうと思いませんか。

特別恩寵、それはキリストによる罪の赦しの恩寵、キリストによる神の救いの恩恵です。

神に立ち返り、ここに至って私たちは、人格的な信仰をいただくのです。