2012年1月29日「主の恵みによる救い」兼松 一二師 : 使徒の働き 15章1‐11節

今から2年位前、近くに太い桜の木があった。それが地上1mの所で切り倒されました。すると翌年、また1年経つと、下から根を伝わって、若い桜の木が驚くほど勢いよく伸びてきました。考えられないほどの成長です。

古い切り株は、まだしっかりとして残っています。私はこの木と新芽から、ユダヤ教とキリスト教のつながりを連想させられます。ユダヤ教とキリスト教にはつながりはありますが、はっきりとした断絶があります。

イエスさまはユダヤ人の聖書で約束されていた救い主としておいでになられたのに、救い主として受入れないのがユダヤ教で、救い主として受入れる人々はキリスト教という新しい形になっていく。イエスさまを信じる人々は、あの桜の切り株から生え出てきた新芽のように、ぐんぐん伸び、ユダヤ人そしてギリシャ、地中海岸の人々に受入れられ伸びていきました。

そして今、新しい問題が出てきました。

 

 

第一、問題の内容、質問の内容をよく確かめたい。

1節「ある人々(ユダヤ人のクリスチャン)がユダヤ(エルサレム)から下ってきた。そして兄弟たち(同じクリスチャン)に『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない』と教えていた。」

以前、こんな方がいた。長年お寺の坊さんだったのが、キリスト教の話を聞いて、キリスト教に回心した。これは驚きです。物珍しさに、あちらからもこちらからもそういう体験をきかせて下さいとお呼びがかかった。人々は興味津津に聞いた。その感想をきくと、仏教のことを聞いているのか、キリスト教のことを聞いているのか分かりにくかった、という。長年信じてきたことから抜けきらない。ここに出てくるユダヤ人のクリスチャンたちも、そうでした。長年ユダヤ教信者でした。イエスさまのことを聞いて、イエスさまを信じている。クリスチャンですが、長年信じてきたユダヤ教から抜けきらない。5節を見ると、ここにもユダヤ教のパリサイ派だったのが、クリスチャンになった人が出てきますが、ユダヤ教から抜けきっていない。何せ、この頃、まだ新約聖書はなかったのです。ユダヤ教のもっている聖書と、クリスチャンのもっている聖書は同じ聖書ですし、その上、ユダヤ人の民族意識は聖書(旧約聖書)によって造られている。ユダヤ人はこう考えていました。

自分たちは異邦人、外国人とは違う。神さまに特別に愛されて選ばれた民族である。神さまに愛されて選ばれたものは神さまに祝福されていかなければならない。祝福されていくには5節、割礼を受け、モーセの律法を行う必要がある。

ユダヤ教信仰から抜けきっていないクリスチャンが他のクリスチャン、つまりアンテオケ教会の異邦人クリスチャンに1節、5節の大問題を投げかけたのです。これまで長年慣れ親しんできた異教から抜けきれないで、クリスチャンになってからも異教的な考え方をしている人々が、途方もない大問題を持ち出してきたのです。

すべての人が長年信じてきた異教から抜けきれないのか。2節、パウロは、はっきりユダヤ教だったのが、純粋な正しいキリスト教に変わった。ピリピ3章5-8節、パウロもかつてはユダヤ教のパリサイ派で、熱心な信者でした。モーセの律法の書に書いてあることをこと細かに行なった人です。

しかし、キリストを知った。イエスさまがすばらしい方だと分った。イエスさまを知らないと、どの宗教も同じとしたり、考え方もごちゃ混ぜになり、イエスさまによって立つとか、イエスさまによって希望をもつということがない。

ともかく、ユダヤ教から抜けきっていないクリスチャンたちは1節、人が救われるには割礼を受け、5節、モーセの教える教えを守り行わなければならないと主張した。

 

この問題の解決のために、2-6節、パウロとバルナバはエルサレムに上り、4節、使徒(イエスさまの選ばれた弟子たち)と長老たちで6節「この問題を検討」した。これがエルサレム会議です。

問題の解決のために全教会が当たるのでない。知恵があり、判断力があり、聖書を教えることを委託された長老たち、そしてイエスさまにみことばと宣教を任され宣教している使徒たちが共に集まって検討審議した。その結果は2節、激しい対立と論争となった。6節「激しい」というのはカッカと頭に血が上ったのかというと、これは「多くの論争」、長い時間がかかり、話はとても複雑になったという意味です。

 

第二、正しい答え。7-11節に、ペテロを通して正しい答えが出された。

問題となったのは「救われるために」ということでした。ペテロは11節「私たちは…(こうして)救われた」と答えている。ペテロの答えは12節のパウロとバルナバとも、13節のヤコブとも同じ理解で、つまり私たちも同じです。「救い」ということはどういうことでしょう。

7節「兄弟たち、ご存知の通り神は」救われるという時、神さまのことが意識されなければならない。先日ラジオでこんなことを言われた方がいます。「人間が本当に悩み苦しむのは、人間関係のことでしょう」私たちの本当の悩みは、他との関係のこと。人は私のことなんか分ってくれないんだ、人なんか信じられないんだ、という思いがあったら本当に深刻な状態です。「人は私のことを分ってくれない。だけれども神さまは分ってくれる」と気がつくと大きな前進です。しかし次から次へと悩ましいことが起こると「わが神、わが神、どうして私を捨てられたのですか」これは魂の恐怖につながる。私のこの悲劇は、あの時の私の罪に対する神の罰ではないか、と思うと恐怖で、呪われてしまっているようにさえ思う。「救い」とは、神さまに罪を赦していただき、この私が神さまに心から受け入れられているという状態を受止めることです。どのようにしたら神に罪赦して頂き、神さまに心から受け入れて頂けるのか。

 

11節、主イエス・キリストの恵みによる。

 

私たちは主イエスの恵みにより救われることを信じます。罪を犯した私が罰せられず、イエスさまが私に代わって十字架で罰を受けて下さった。私たちはイエスさまを仲介者として、神さまに心から喜んで受け入れられるようにしていただいている。これを一言で7節、福音のことばといえましょう。主イエスさまの恵みによって信じ、つまり福音のことばを信じて救われる。

 

ある人は不思議に思うでしょう。どうしてそんなことを信じられるの?

8-9節、人の心の中を知っている神は聖書を与え、あかしをし、福音のことばを信じられる心にきよめてくださった。信じられるというのは、神さまが聖霊を遣わし、私の心を整えてくださったおかげである。

私の娘が6年生のとき、こんな質問をもってきた。「お父さんは、どうして牧師になったの」ふつうならサラリーマンになるんじゃないの。それがどうして牧師になったの。私はハタと考えた。どうしてか。なりたいと思ってなっているのでない。なりたいと思ったからなっているのでもない。今でも牧師には不向きだと思う。なのに、どうして牧師になったのか。

神さまが召してくださったからである。私はこの召しに応えただけ。イエスさまの恵みによって救われたことを嬉しく思っている。イエスさまの恵みを知って、私は本当の愛、しかも本気の神の愛を知った。正しさも知ってきた。あわれみも知らされた。我を忘れて生命がけになられるイエスさまを知った。罪を赦されるすばらしさも知った。見えない神を知るという超越的なことも知らされた。教会を通し共同体で生きるということも知った。

もう言いきれない程のことを、イエスさまによって知らされている。