2012年2月5日「答え方とあり方」兼松 一二師 : 使徒の働き 15章12‐29節

先日、上野駅から学校へ歩いていくと、パトロールカーがサイレンを鳴らした。そばを通っている車が、スピード違反だというので止められ、取り調べられていた。私たちも現実に犯し易い犯罪です。これ位は大したことはないとスピードを上げて走っていったら、前方に警官が立っていた。びっくりしてブレーキを踏んで、ゆっくり走っていく。現実に、私たちの心には、事故を起こさないために適度の速さで走るというよりも、警官につかまらないためにゆっくり走るということがある。

 

今日の所の背景は15章1節「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」とユダヤ人の人々が言った。ユダヤ人でクリスチャンになってからも、モーセの律法というものは、彼らにとって警官のようなものである。自分たちをいつも監視し、違反をするとすぐに犯罪人扱いにする。そういうことから律法を厳格に守り、そういうあり方が「神さまに受け入れられる=救われる」というふうに考えていた。モーセの教えの中にも、申命記5章32-33節、教えを守ったら神さまは祝福し、しあわせにすると書かれているじゃないか。

ところが、今時のクリスチャンたちは「イエス・キリストは私の罪の赦しのためであったと信じるだけで救われる=神に受け入れられる」と言っている。

こうして、ユダヤ人クリスチャンと今時のクリスチャンの言い争いが起った。それはそれはものすごい言い争いになった。大切な問題ですから、どちらも譲れなくなった。

 

 

第一に、大きな問題の解決のために、教会はどのような解決策をとったか。

7節、ペテロが話し始め、12節、パウロとバルナバが話した。この人たちは教会の指導者ですが、自分たちの信仰、そして自分たちの働きを通して、神さまがどんなことをなさってこられたのかを証ししました。私たちには信仰の体験を語り合うことがとても重要です。教会の中で問題が起ったとき、私たちは問題解決のために共に祈り、そして解決策を出し合い、それでも難しいときには議論し、最後に多数決で決めようとします。しかし、それよりもずっと大切なことは、ペテロも、パウロも、バルナバもしたように、信仰の体験を証しし合うことです。自分たちの信仰生涯を語るとき、神はどの方にもしるしと不思議なことをなしてくださっている。そのことは分け隔てがない。

よく質問されますが、「どこの出身ですか」と。「私は秋田県の出身です」と答えると、「どうして岐阜に来たのか」「秋田県から茨城県に生き、そこで主を信じ救われた。また岐阜に招かれてきたんです」どうして岐阜に来る気になったのかと言われると、「神さまの不思議な導きです」としか考えられません。そして神さまの導きの中には恵みが豊かに満ちている。各自の信仰の証しを聞いて、皆さんお一人お一人に神さまが特有のしるしと不思議なお働きをしてくださっているのがよく分かります。つまり、神さまは私たちの現実に力強く働いておられ、この人にはこのような形で、あの人にはあのような形で、不思議な位神さまが働いておられるのが分る。

 

 

第二に、問題解決のために必要なもう一つのことは、

13-18節、ヤコブの語ったことですが、聖書では人が救われるためには何と書いてあるか、と聖書に聞いた。17節、それは、主を求める人は異邦人でも救われる、という意味です。まことの信仰者も、異邦人も、誰でも主を求める人を主は救ってくださる。聖書を見ると神はユダヤ人だけを心に留め、ユダヤ人だけに呼びかけているのではない。異邦人をも、どの国民をも心に留めておられることを大昔から知らせておられる。

私が旧約聖書を読んだとき、イスラエル人、ユダヤ人を特別にひいきしている神を感じた。しかしよく注意して読んでみると、ユダヤ人以外の人々、つまり異邦人にも、神さまは心をとめている。聖書が知らせている神は、どの国のどの人とも、神を求める人とよいつながりをもっていかれる。

 

19節、ヤコブはひとつの判断したことを提案する。「神に立ち返る人を、あれをしなければならない、これをしなければならないといって、重荷を負わせて悩ませてはいけない」このことは28節、ひとつの皆で、しかも聖霊も働いて、決定になっていく。

ここにいる私たちも、このことは大切として承認していきましょう。重要なことは「主を求める」ことです。神さまを求める人は皆救われます。それ以外のことで、何かをしなければならないと考える必要はない。何かをしなければならないと思っていると必ず重荷になります。心の負担になります。ただ徹底して主を求める人になっていかなければならない。そして神さまを神さまとして知ろう。

 

 

私たちのあり方を、20-29節から理解しましょう。

 

偶像に供えて汚れたものを避ける。神でないものを崇め拝む、礼拝し信仰することを避けることです。

いま東京でこんな動きがある。神輿を担ぐことを日本の文化として保存しよう、そのためにNPO法人を取得した。NPO法人の代表は、ある神社の氏子会会長だそうです。神輿を担ぐのは日本の文化で、最近子供が少なくなり、担ぐ人がいなくなったからだという。このことをどう考えますかと相談を受けた。私は「その神輿は神社で神主からおはらいをうけ、神社をスタートして、また神社に戻ってきませんか」とたずね確認した。神社で神主からおはらいを受けるということは礼拝行為で、それは世間でいう宗教性ということです。そのような礼拝行為に関わるというのが偶像ということです。神さまでないものを神としてあがめ礼拝行為をすることは、神の聖さを潰すことですから、避けなければいけない。

 

不品行、不道徳は避けなければならない。不品行は自分が自分に泥を塗ることであり、自分が自分と自分の家族全員を汚していくことです。自分と家族全員をはずかしめていくことです。ひいては家族に憎しみを引き起こしていきます。

 

絞め殺したものを避けることです。自然に死んだ動物の肉を食べない。他の動物が殺した動物の肉を食べない。首を絞め殺した、血を絞り出さない肉を食べてはいけない。旧約聖書のレビ記の中に記されていますが、その中でも大切なことなので、健康上、このことは注意をしなければいけない。

 

血を避ける。血でつくられる食物は避けるように。後代になり、西方教会ではこのことを、人の血を流すことを避けるようにという風に解釈しました。血は人の生命で、生物の生命です。生命に対する畏敬の念をもつようにしなければいけない、という意味です。

 

このように20節は、「偶像を避ける」という、宗教的なことに対してのキリスト者の健全な信仰を証しすること、「不品行を避ける」という、道徳性を身につけること、「絞め殺したものを避ける」という、食生活上の衛生をよく考えること、そして「血を避ける」という、どのような生命でも生命を尊び、恐れの念をもっていくことが、私たちの健全なあり方を示してくれるものです。