2012年3月18日「いやがらせを乗り越えよ」兼松 一二師 : 使徒の働き 17章1-9節

二、三日前、家内と散歩していた。教会のそばの道路工事がなされていた。家内がこう言った。「道路が立派になった。昔、『すべての道路はローマに通ず』ということばを聞いたことがあるね。」私はふっと考え「『日本の道路はどこかしこに造られ、どこへでもいける』だね。」と応えた。

ローマ帝国は、このパウロの時、50~60年代に、すべての道路をローマにつながるように造った。

 

1節、「テサロニケ」はアジアとローマを結ぶ大きな都で、マケドニヤ州の主都でした。16:9で「パウロは幻を見た。一人のマケドニヤ人が彼の前に立って『マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください』と懇願するのであった」という幻、夢に沿って今、マケドニヤ州の都テサロニケに来た。この都に入ったときパウロは心が弾んだでしょう。念願の地方にやっと辿りついた。

 

第一、1-3節、パウロの伝道を見たい。

1b-2a節「パウロはいつもしているように(ユダヤ人の)会堂に入っていって三つの安息日に渡り」伝道した。キリスト教の伝道をするのに、どうしてユダヤ人会堂を使って伝道していくのか。どうして安息日にこだわるのか。ユダヤ人はいつもキリスト教に対して反対し、危害を加え、迫害して、異端者扱いしているのに(13:45,50、14:2,19、17:5)、どうしてパウロはユダヤ人会堂に入っていって伝道するのか。

ユダヤ人は聖書を知っている。聖書に書かれていることがどんなことか知っている。聖書は先ずユダヤ人に与えられていた。ユダヤ人は聖書を読んで、聖書にどんなことが書いてあるのか知っている。聖書で、一人の方を世に遣わすと約束されていた。罪からの救い主を遣わすと神さまからの約束を与えられていたのが、ユダヤ人でした。そこでパウロは先ずユダヤ人に対して話した。

パウロがいつもしていることは、2節「聖書に基づいて」別な言い方では「聖著から」話した。

 

聖書を読んで聖書が分っていくと、こんな素晴らしいことが語られているのかと感動していくでしょう。ある家に三人姉妹がいた。皆大きくなってきたが一番下の妹が17歳のころから乱れた生活をして、家族が悩み苦しむことになった。手に負えないほど乱れた。夜は家に帰らない、盗みを働き、親がお金をあげていないのに派手な指輪をはめ、綺麗に着飾り、怪しい生活が続く。その手に負えない妹のことでお姉さんが相談に来た。「こんな淫らな妹なんかいない方がいいと思う。なぜ姉妹がいるんでしょうか」これは多くの人々がもつ疑問です。力になり、助けになる姉妹がいるなら本当に嬉しく誇る。しかし手に負えない、悩みの種になるような姉妹がいると、いない方がいい。なぜこんな姉妹がおるんだ、とつぶやく。聖書にどんなことが書いてあるか。箴言17:17「苦しみを分け合うため」このことばを受け取ってから姉は妹のために苦しみを引き受け、ついに妹を教会に連れてき、立ち直らせた。聖書のことばと共に神は働いている。

 

しかし、聖書に書いてある重要なことは、使徒17章3節「キリスト(救い主)は苦しみを受け、死者の中から甦らなければならない」。聖書にはことばが記されているが、このことばは救い主キリストについて説明している。私たちを救う方は、迷いきった私たち、途方に暮れた私たち、自分勝手なふるまいをして人を悩まし罪を犯している私たちを救うために、ご自分の体をはって犠牲になられた。

私が牧師になったその年のある冬の夜のこと、一人の老人が教会に来られた。その老人が話してくれたひとつのことが今も印象深く残っている。その方は、親類の方が困っているから連帯保証人になってくれというのだが迷って、牧師に相談に来た。「親類は『なってほしい』と頼んで来ているんだから、しなければならないことは分っている。しかしネー牧師さん。人に親切をするということはたやすいことではないんだよね」どういう意味ですかと私が聞くと、その老人はこう言い切った。「親切という文字をどう書くか。親を切ると書く。親を切るほどの覚悟がなければ真の親切はできない。私にはそれほどの覚悟がないために連帯保証人にはなれない。牧師さん、あんたなら出来ますか」私はギクッとした。私たちは現実として迷いに迷っている人を助けようと、連帯保証人にもなれない(この話とは別に、聖書は思慮なく他人の保証人になることを戒めています)。しかしキリストは私たちを救おうとして、ご自分の生命を犠牲にし、死なれた。体をはって犠牲になられたが、父なる神は救い主を死から甦らせた。こうして救い主は甦って、どの人をも、どんな程度の人をも救う力があることを示された。

私が伝えているイエスさまこそ、そのキリスト、救い主です。

 

第二、4-9節、伝道の結果について。

4節、パウロの話によって、イエスさまこそ救い主であることを信じた人々がいます。幾人かのユダヤ人、ギリシヤ人、貴婦人つまり上流階級の婦人たちが信じた。信じ、イエスさまへの信仰をもったことを、ここでは「パウロとシラスに従った(Iテサロニケ1:6)」と表わしている。イエスさまを本当に信じる人は、イエスさまを伝えている人に従うものです。従うということはイエスさまへの信仰の表われです。目に見える兄弟を愛さずして、どうして見えない神を愛せようか。イエスさまへの信仰が確かであり、日常生活においても信仰が適用されていくのは、イエスさまを伝える人に従い、伝える人の力になることによっている。

 

5-9節、ところが信じないユダヤ人がおり、ただ信じないだけではなく、クリスチャンたちをゆさぶりにかかった。ゆさぶる方法として5節、町のならず者を集めて暴動を起こし騒がせた。6-7節、でっち上げのことを言った。クリスチャンは6節「世界中を騒がせてきた者たち」だという。5節を見ると、騒ぎを起こしたのはクリスチャンではない。

皆さん、クリスチャンには世界を揺るがすほどの霊的な力がある。しかし世を騒がせることはしない。本当のクリスチャンは人を愛していく。つまり人を整えていく。本気で信仰をもっている信仰者は、規律があるじゃないですか。

7節、イエスさまは王以上の力をもっている。そして神の国を造っている。しかしカイザルにそむく行いはしない。カイザルにはこの世の役割を委託し、イエスさまは永遠の神の国の形成に努めている。

 

どうしてユダヤ人たちはこういう混乱を引き起こすのか。どうして問題を引き起こすのか。5節、妬みです。特に「ねたみにかられたユダヤ人」によって混乱、問題、騒ぎが起こされる。ユダヤ人は聖書を知っている。読んでいる。しかし本気で信仰をもっていない。町を歩くと「十字架のネックレスをかけている人」がいる。信じていないが十字架をぶら下げている人がいる。信じていないが聖書や信仰をぶら下げている人が妬み心をもつと、必ず混乱が、騒ぎが、問題が、そして他の人を苦しめることが引き起こされる。妬みは燃えるような情熱です。その情熱の中に憎しみ、反抗、悪意がつまっている。聖書を知っているが、イエスさまを罪からの救い主だと本気で現実に信じていないユダヤ人は、妬みが大きな自分の罪であることに気付かないのだろうか。その自分の妬みの罪のためにイエスさまが犠牲となったことを信じないのだろうか。

もしまた、ねたみにかられたユダヤ人のような人に悲しみや苦しみを与えられているクリスチャンがいるとするなら、くじけてはいけない。くじけないための2つのことは、

ひとつ、イエスさまを思え。十字架につけられていくイエスさまを思え。イエスさまの、他人のための犠牲となって十字架で苦しめられたことを思え。イエスさまと一致する信仰をもつようになろう。

また、自分は天国に向かう旅人であると自覚せよ。そういしたら、苦しみや悲しみに耐えられる。むしろ天国に入るものにふさわしくされるのが苦しみであると、苦しみを受けとめる力も与えられる。

悲しむ、苦しむ兄姉よ、あなたのため、心から愛してとりなしの祈りをささげている方がおることを心にとめてください。