2012年4月1日「文明社会への宣教」兼松 一二師 : 使徒の働き 17章16-34節

私は昨年、東京上野の美術館で「ギリシャ文明の展示会」に入った。その中での見どころは、白い石膏で造られた円盤投げの選手の像でした。これは見惚れてしまう。うっとりするほどきれいで、筋肉のしなやかな男の人の像でした。他をずっとみて驚いたのは、「偶像でいっぱい」(17:6)ということでした。偶像というのは日本の大仏のように大きいのか、あるいは仏像のようなものかというと、驚くなかれ。手の平の大きさのものや、指一本ぐらいの小さなものです。その小さな像ですが、一つ一つに「人間の技術や工夫(才能)」(29節)がふんだんに込められている。それも例えば、黒ずんだ金属と赤ずんだ金属に、細かく、葛飾北斎の絵を刻んで造ったようなものでした。私はこれには驚いた。ギリシャに偶像が多くあるのに驚いた。

 

アテネの町にはオリンポスという2900mの高い山があって、オリンポスの山には12の神々が祀られていた。ゼウス、アポロン、ポセイドン、ヘルメス、アルテミス、アテナとか、私たちが聞いたことのある名がある。このオリンポスの山に祀られている神々にささげる行事として、オリンピックの祭典がもたれていました。ともかくアテネは偶像が多い。

 

もうひとつ、アテネは8節、哲学者が盛んでした。BC400~300年の間には哲学の巨人たちが現れた。

そして、このパウロの時代に盛んだった、エピクロス派のテーマは何か。「人生の目的は私たちが幸福になることである。」幸福とは何かというと、「楽しいことである。」人生は楽しくなければならない。楽しくなるのはどんな時か。したいようにするときだ。食べたいものを食べ、美しいものを着飾り、美しいものを見、美しいものを手にすることである。今風に言うと、したいようにすることができるには、お金があることが必要。だからお金、おいしい食べ物、きれいな洋服。すべてはこの世の見えるものしか考えない。

ストア派は、論理学、自然学と倫理学を考えた。人間の人生をどう考えたか。「なるようにしかならない。」

このエピクロス派とストア派の考え方を知ると、どんなことが分るか。BC400~300年頃の哲学者たちとは比べ物にならないほど劣っている。人生の目的は幸せになることで、幸せとは楽しむことであるなんて、また、人生はなるようにしかならないという考えなんて、考えている部類に入らない。

しかし、それでいて文明の進んだ町である。数学が進み、宇宙に向かい、自然科学が進み、精神医学が進んでいる。そして医学も医療技術も進んでいる。それでいて、たくさんの数え切れない偶像がある。文明が進むとキリスト教は排除されるが、偶像は多くなる。ここにパウロは伝道しました。

 

 

第一、パウロの伝道に対しての、アテネの人たちの印象はどういうものか。18-21節に記されている。

18節、キリスト教は外国の神々である。私たちの国は神という神をたくさん持っている。それぞれに立派な神殿も持ち、すぐれた技術で造られている。偶像もたくさんある。キリスト教は、私たちの宗教でない。外国の神である。そしてキリスト教は19節、新しい宗教であり、20節、めずらしい教えをもっている。

それは18節、イエスと復活とを教えているからです。ある訳では「イエスとアナスタシスを伝えたからである」となっています。男神イエスと女神アナスタシスのことを宣べ伝えたものと受け取った。

周りの方々もキリスト教をそう言うことがあるでしょう。「外国の神々だ。めずらしいことを言う」と。

 

 

第二に、パウロは、このような文明の進んだ町、しかも偶像の神々が祀られているところ、しかも「キリスト教は外国の神を伝えているし、新しくめずらしい宗教だ」という人々に、どのように伝道し、どんな話をしたか。私たちにとって、このパウロの状況は全く同じです。目と耳をはっきりと開いて見ていきたいと思う。

 

先ず、パウロの伝道のしかた。17節、人々と出逢うと話しかけた。居合わせた人々に自由に話しかけた。そして19,22節「私たちのところに来て、まとまった話をしてくれませんか」と招かれたら、頼まれた話や食事は断らないで出ていく。そして話す。

22節「アテネの人たち…私はあなたがたを宗教心にあつい方々だとみております」という切り出しをしている。拝んでいるのは偶像で、神さまでない。そこは歪んでいますが、宗教心をもっていることには期待がもてると読んだのです。宗教心が篤くて、あの神を拝み、この神を拝み、そばにある神を拝み、遠くのところへ行ってお参りする。偶像崇拝者はひとつの神を信じて、それで足れりとしない。ひとつの神を信じているだけで安心できない。満足できない。あの神にはテストの合格を祈り、この神には縁談のことを祈り、向こうの神には仕事がうまくいくように祈る。偶像崇拝者は、どんなことをしても満足がなく、不安が増える。その欠けた部分を満たそうとしてこちらへ行き拝み、あちらへ行き拝む。パウロはその宗教心を正しい方へ導いていく。

 

 

第三、パウロの話の内容は何か。一言で23-31節をみると「神」さまについて語った。

24-25節「神はこの世界とその中にあるすべてのものをお造りになった天地の主です」創造主なる神です。――この無限の神を、立派な神殿に迎えようとしても迎えきれない。厳かな儀式をもって神に仕えようとしても、そんな小さなことは無限の神さまにはふさわしいものではない。

25b-29節、神のお造りになった中で、私達自身、誰もが感じ取れることは人間のことである。神は私たち人間をも造られたが、25b節、いのちと息を与えた。28-29節、私たちは神の中に生きている。神がお造りになった中で人間は最高の傑作である。

 

今の時代、最もすごいのはロボットを造ったことと、コンピューターを造ったことです。コンピューターと将棋の王者とが打ち合って、コンピューターが勝った。コンピューター頭脳はすごいと騒がれている。

しかしロボットにしてもコンピューターにしても、肝心のものがない。「いのちと息」がない。データを沢山打つことで操作されるというものです。しかし、神さまが造られたものには「神はいのちと息を与えた」、操作されなくても、このいのちと息で自分から動き考える。実は神ご自身がいのちと息をもっているのである。

神ご自身がいのちと息をもっているのを、29節「像」で表わせますか?表わせない。どうして神を像で表わしたのか。像に刻んでは死んだ芸術にすぎない。生きて、いのちと息をもっている神さまを表わすのは31節、イエスさまです。

イエスさまは死んだのに甦った。神イエスは肉の生命をこえた、いのちと息をもっている証しです。死んだのは私たちを罪から救うためであり、甦られたイエスさまはもう一度私たちのところへ来られる。信仰をもつ者と信仰をもたない者をふさわしくさばくためです。

 

 

今の時代の罪とは何か。30節「無知」です。これは知らないということでない。相手を自分の思いで勝手に決めつけてしまうという愚かさのことです。私はあれも知っている、これも知っている。これだけ文明の進んだ中にあり分っている、と言いながら、生きていのちと息をもつ神を、自分の思いで、自分勝手に決めつけて「像」に刻んでしまっている。同じことを他の人間にもしている。

 

30節、いま命じられている。「悔改めよ」。ここでの悔改めとは、神さまと関係を作り、関係をもて、と、まさに27節が別の言い方をしている。イエスさまを信じるとは、イエスさまとしっかりした関係をもつということです。

主との関係の中で知ることが広くなり、知ることが深くなる。その知ることは力になり、喜びになっていく。