2012年4月8日「同民族の不信」兼松 一二師 : 使徒の働き 18章1-11節

この四月の初めになると、いつも思い出す。1971年4月2日、私たちは初めて岐阜県に来ました。名鉄名古屋本線に乗って、笠松という町に降りた。その時あたり一面桜の花でいっぱいでした。そしてよく見ますと神社とお寺が多いことに驚いた。周りには小さな工場がいくつもありました。繊維関係の工場、機械工場、綿工場。そして小さな町なのに、大きな銀行3つがありました。日が経って、岐阜市を案内していただいた。衣料品の問屋街。歓楽街の柳ヶ瀬(今はすたれて、寂れているが)。そして岐阜駅の南側を回り、「ここは赤線地帯です」(今はなくなって南口として整備されたが)と。私がそれまで知らなかったことばが次々と出てきた。岐阜県は昔、繊維で栄えた町だったようです。お金が入って来て、そのお金を楽しみや歓楽のために使った。

それと全く似ている町が18:1「コリント」です。

 

コリントは「ギリシヤの星」と呼ばれるほど商業が盛んな町で、また、歓楽街、赤線地域もあった。それはまた色々な人々がこの町に入ってくることにもつながった。

立派な人でも、儲けと歓楽には走ってしまう。何も考えない人も、心の虚しい人も、力のない人も儲けと歓楽には走ってしまう。権力のある人でも、他の人に頭が上がらない人でも、儲けと歓楽には走ってしまう。

そして信仰者はどうでしょうか。イエスさまを信じたら、儲けとか歓楽に走ってしまうことはないのでしょうか。このようなことを背景にもちながら、特に9-10節を考えましょう。

 

 

第一に9節、ある夜、主は幻によってパウロに「恐れるな」と言われました。

パウロは何を恐れたのでしょう。私たちも、時々恐れを感ずることがあります。気をひきしめている時は恐れなんて感じなかったのに、落ち着いて腰をおろしたとき、ふと不安になり、恐れが出てくることがあります。気を張っている時は勇敢になるのに、気が弱くなったとき、恐れが大波のように襲ってくることがあります。

 

パウロは何を恐れたのか。健康な体でないために、弱い自分のこれからのことを考えて恐れたのか。あるいは4-6節、ユダヤ人の反抗が止めどなくしかも手をゆるめることなく続いてきた、12節にもユダヤ人の反抗がある。これは国民的な反抗です。ただ反抗される者は、それで弱っていき、力を失っていきます。手をゆるめることのない反抗に誰が耐え続けられるでしょう。耐えるということには、すごいエネルギーを費やしてしまう。それだけのエネルギーをもっと建設的なところに使ったら、もっともっと良い働きができるはずです。

パウロは同じ民族ながら、信仰が違うことで反抗された、それで恐れたのでしょうか。人に脅かしを受けて恐れない人がいるでしょうか。

 

更に2節「クラウデオ帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令した」ことをアクラとプリスキラというユダヤ人クリスチャンから聞いた。ローマ皇帝は、どうしてユダヤ人に、ローマから退去するように命令したのか。どうも近ごろ、ユダヤ人はキリスト教と争いをし、社会が騒がしくなった。キリスト教とて元々ユダヤ人の間から起った宗教ではないのか。こんないざこざを起こすユダヤ人はローマには要らない。

パウロの召命は異邦人、王たちに宣教することでした。そういう召命をいただいて、夢をもっていたので前進してきた。しかし今、自分はローマに入ることはできない。将来の夢が断たれた。これが恐れを引き起こしたのだろうか。自分に将来の夢はないと思うと、私たちの心は働かなくなります。つまり心が機能不全になります。これが恐れになっていくこともあります。

 

もうひとつ、恐れの理由があります。8節「多くのコリント人が信仰をもってバプテスマを受けた」続々と多くのコリント人がキリストを信じて洗礼を受けた。これは大喜びして、ますます心が燃えてくるのではないか。しかし、コリントの町が商売と歓楽と偶像の町であることに変りはない。パウロから話を聞いて信仰をもったが、家に帰ると偶像があり、町に出ても商売と歓楽と偶像がある。パウロは一人一人の現実の環境を見て、心に不安と恐れを感じた(第2コリント11:1-3, 28)。信仰をもったとは言え、もったばかりで日常の生活環境はこれまでと全く同じです。パウロはコリントの人々がまた世に戻っていくのではないかと恐れたのです。

 

 

第二、恐れの中で、幻の中で示されたこと「恐れるな」。恐れの中で「恐れるな」と言われて、安心になるか。

よく私は散歩していて、犬を連れて歩く人々と会う。私は犬が怖いので、遠くに見かけても大きく別の方へ行こうとすると、飼い主はこう言う「大丈夫」。大丈夫と言われてもやはりうなったり、吠えたりする。なにも大丈夫なことはない。

パウロに「恐れるな」と言われた方は、その理由として10節「私はあなたと共にいる(からだ)」と言われた。誰かが共にいると勇気が出る。ただ、この「わたし」とは誰か。9節「主」です。主とはどんなお方か。2章36, 32節、十字架につけられたイエスさまです。

 

話が少し中断しますが、私たちがイエスさまを確実に分っていくため、またイエスさまから心が離れないためには「イエスさまは私のために十字架にかかってくださったのだ」と分ることです。

イエスさまが十字架にかけられたことが聖書に書いてあることは知っている、それ以上のことは知らないというなら、その人は十字架の力を知らないでおる。また自分を知らない。

「イエスさまは私のために十字架にかかってくださった」と受け取る人は、自分の罪にいつも警戒する。そしてイエスさまは私の罪を解決してくださったとイエスさまに感謝する。そして、たとえまた罪を犯すことがあっても、イエスさまに赦しを求める。私はイエスさまによって罪から救われていくんだ。私の努力によって、自分の罪の解決ができる訳ではない。イエスさまの力による。その力がイエスさまにある。私を新しい人として変える力がイエスさまにはある。2章32節、そのあかしとして「イエスは死から甦られた」。

また、甦られてから、私と、どこにあっても、共におられるようになった。甦られて私たちの肉眼では見られないイエスさまが、私たちと共にいてくださるという証拠は何か。イエスさまを信じる人があなたのそばに、いつも、いつまでも共にいる。18章2, 3節、アクラとプリスキラ、5節、シラスとテモテがパウロのところに来て、この人たちはパウロとともに歩んでいく。

 

 

第三、主が幻の中で示されたもうひとつのことは、「語り続けなさい。黙っていてはならない」。聖書のことばをコリントの人々に、今目前にいる人々に語り続けなさい。「この人は日常の生活環境が悪いから、クリスチャンになってもまた世に戻っていくんじゃないか」と心配しているのでなく、黙っていないで語り続けなさい。そうしたら信仰を育むことになる。聖書のことばを聞き続けることが、イエスさまを信じ続け、きよくなることにつながっていくのです。それにもうひとつの約束がある。10b節「この町には私の民が沢山いるから」語り続けよ。そうしたら新しい信仰者が招き寄せられてくる。

 

パウロは、主の語ってくださったことに、どう応答したか。

11節「そこでパウロは……腰を据えて、彼ら(コリントの人々)の間で神のことばを教え続けた」

私たちも自分の信仰を守るだけでなく、増進するために神のことばを聞き、心に響いた聖書のことばを誰かに語り続けていきましょう。

9節、10節を共に読みましょう。