2012年4月15日「世の識者」兼松 一二師 : 使徒の働き 18章12-17節

私たちの人生の中で、何度も言われることばがある。「食べなくちゃいけないよ。一日これぐらいは食べなくちゃ……」若いお母さんは小さな子供に、いつも言う。食べたくない時、嫌いなものが出た時でも「好きなものだけを食べていたらダメよ。あれもこれも食べて健康になるんだよ」食べやすくするために味付けが考えられた。大きくなると私たちは、心の栄養を採らないと多分、意味深い人生は送れないでしょう。心の栄養はどのようにして採るか。

基本的には本を読むことだと思う。本を読まないと心の栄養がなく、心の栄養がないと調べるとか、我慢するとか、勇敢に進むとか、相談相手になるとか、交渉するということができない。あるいは寛容になる、判断するという力がない。心の貧弱な者は責任を取らない。逃げる。ずるいとか、人を悪く言う。さも自分が偉い、優れた者のように言う。これは心の貧弱さを表すものと言えます。心の栄養を取るために本を読むように。

 

私は若い時、牧師になってから、知らずに読んだ本があります。この人の本はためになると思って二冊読んだ。セネカという人ですが、このセネカの「怒りについて」「人生の短さについて」という文庫本です。セネカという人はAD4-65年に生きた人で、この人のお兄さんが18章12節「ガリオ」です。ガリオ兄さんにセネカ弟が文を綴ったのが、怒りについて、人生の短さについて、という文です。頭のよい弟が兄を道徳的に諭した本です。

12節、ガリオはAD51年に地方総督になる。この12-17節は多分AD 52-53年の出来事と言えます。ローマの地方総督として、聖書には他にポンテオ・ピラトが出てくる。皇帝の次の位の人です。この総督の権威というのは強いものです。

 

 

第一、12節のことばの意味を考えましょう。

「ユダヤ人は、パウロ……を法廷に引いて行って」とある。この意味は何か。

裁判所を利用したことのある方はおるでしょうか。家庭裁判所でもいい。私も一度裁判所に出頭命令を受けて出向いたことがある。交通犯罪で、スピードの出し過ぎで裁判所へ行って、判決を受けた。「この書面に書いてあることに間違いはないですか」ハイと答えると、裁判官は次に「それで罰金を払うか、15日間の刑に服すか」と正され、罰金刑にした。私は罰金刑で済ませた。法廷の判決というのは社会のルールに基づき、また社会のルールになっていく。あるいは、ある人に社会的権利を与える、権利を守るということをするのです。ユダヤ人がパウロを法廷に連れて行ってガリオに判決を下してもらうようにしたということは、ユダヤ教がキリスト教を迫害したりこらしめていく権利を与えてほしいと願ったのです。13節が訴えの内容ですが、判決はどう下ったか。14-16節、結果としてユダヤ教はキリスト教を迫害したり暴行を加える権利を与えられなかった。15節、イエスさまがメシヤかどうかとか聖書をどう解釈するか、宗教や信仰の内容については自分たちで始末しなさい、「信仰のことについて裁判官にはなりたくない」。16節「こうしてユダヤ人たちを法廷から追い出した」ということは、ユダヤ教がキリスト教を攻撃したり危害を与える権利は与えないということでした。ユダヤ教も、キリスト教も、特別待遇をしないで、それぞれ自由に信じていくように。何か問題があった時はお互いで解決していくようにと言い渡した。また、いよいよキリスト教はローマ帝国の歴史の中に入っていく。

 

 

第二、17節をみる。

「そこで皆の者(ユダヤ人)は、会堂管理者ソステネを捕え、法廷の前で打ちたたいた(ユダヤ人は、ソステネがパウロをかくまったのではないかと思い違いをしていた:8節参照)。ガリオは少しも気にしなかった」この時のガリオは自分にはこんなこと関係が無いと素知らぬ顔をしていた。このガリオのあり方に問題はなかったか。14節と関わらせ理解するとガリオに問題がある。しかも「皆の者は……法廷の前で打ちたたいた」何の根拠もないのにソステネは悪者にされて法廷の前で(裁判官の席の前で=岩隈直訳)なぐられた。これは悪質な犯罪です。それなのにガリオは関わろうとしなかったのです。ガリオのこんなことに関わりたくないという姿勢が、ユダヤ人に罪を犯させていく。

 

もうひとつ14節「パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かってこう言った」とある。パウロに弁明の時を与えていない。ユダヤ人がパウロを訴えたのなら訴えの内容をパウロに弁明させていくのが法廷のルールです。ローマ帝国の法廷でもそうしていた。ローマ人には法廷での弁明を聞くのがひとつの楽しみでもありました。ところがガリオは、こんなことに関わりたくないということから、パウロを踏みにじっていくことになった。

 

こんなことには関わりたくない、あんなことにも関わりたくない、この人にも、あの人にも関わりたくないというあり方をしていると、ある乱暴な人には罪を犯させ、良心的に生きている人の言い分を聞かず、結局全体がメチャクチャになってしまうのです。私たちは、こんなことには関わりたくないというあり方を克服していかなければ、神さまの言葉を聞きとれなくなってしまう。確かに私たちは関わりたくない気持ちを持つ人のことは分ります。このユダヤ人のように何でもゴリ押しをしてくる人もいるし、礼儀のない人もいるし、思い違いで人を苦しめる人もいる。そういう現実には関わりたくないのが人の気持ちです。

 

しかし、そういう悩ましい複雑なことがあるからこそ、神さまによく祈るようになる。複雑なことを解決しようと思えばこそ、よく神様のことばも聞き、人の言い分を聞く。つまり耳を開き、心を開いて聞いていく。そこに神さまはみわざを行っていくように思われる。しかし、こんなことに関わりたくないという姿勢の中に神への祈りがあるだろうか。あるいは神の言葉を真剣に聞くと言うことがあるだろうか。

だから今日から、こんなことに関わりたくないというあり方を一切捨てよう。

 

 

第三、17節から神の恵みの取り扱いを見たい。

ソステネはユダヤ人の腹いせで、ひどい取扱いを受けた。ユダヤ教とキリスト教の争い、ガリオのいい加減さによって、とばっちりを受けた。この時ソステネはクリスチャンではないのに、クリスチャンに間違えられてひどいことをされます。しかも法廷の裁判官の前で殴られる。ソステネはユダヤ人を恨んだだろうか。パウロを恨んだだろうか。ガリオのいい加減さを恨んだだろうか。

第1コリント1:1に「兄弟ソステネから」とある。彼は最初クリスチャンではないのにクリスチャン扱いをされ、ひどいことをされた。しかし、そのことがきっかけでイエスさまのことをパウロから聞くようになり、後にイエスさまのことを深く知り、宣べ伝えるようになった。

 

この近くに笠松競馬場がある。笠松競馬場は木曽川の堤防の下にあります。私は何度か堤防から競争を見たことがある。馬はみんな騎手の手綱で動かされ、ムチで尻をたたかれて走り抜いていく。騎手の手綱とムチがなかったら馬は栄冠をとれるだろうか。手綱とムチは強制です。馬は手綱とムチで無理やり走らされている。しかし手綱とムチのおかげで栄冠を取れる。

私たちも、自由気ままにしていたら神の栄冠は受けられない。強制されることで、それに沿っていくとき栄冠がある。強制の恵みと言ってもよい。

ソステネはまさに強制の恵みを豊かにいただいた人です。もう一人クレネのシモンもそうです。イエスさまの十字架を無理やり負わされて、重い十字架を負っていった。そのあと信仰をもって、南の国の重要な宣教者、指導者になった。

イエスさまのことで強制されることも恵みと覚えていこう。