2012年6月17日「人生最大の悲劇」新井 健二師 : ローマ人への手紙 1章19-23節

 前回に引き続き、この箇所の主題は「神の怒り」です。

 前回お話しましたように、ここでパウロが「神の怒り」についてはっきりと語るのは、私たちが、まことの神様の愛、福音の心を理解する為でした。

 今日もその事をまず心に留めて、共に聖書の語り掛けに耳を傾けて行きたいと思います。

 前回取り上げた18節でパウロは、一つのまとまりである18節から32節までの主題として、「神の怒り」が天から啓示されているのだと述べました。

 そして今日の箇所では、その「神の怒り」に対して、私たち人間の側に、一切の弁解の余地が無い事をはっきりと宣言しています。

 それはあたかも、映画やTVドラマなどでよく見かける、裁判の場面のようです。そしてその法廷で裁かれているのは、他でも無く私たちです。

 また私たちだけではなく、これまで歴史上に存在し、またこれから存在するであろうすべての人間が、ここで裁かれています。

 それでは早速、19節から詳しく見て行きたいと思います。

 

本論1)

 19節でパウロは、神の怒りを知らなかったと言う、すべて人間の言い逃れが通用しない、その根拠を示しています。

 それは「神が明らかにされた」からであると言っています。

 この「神が明らかにされた」という言葉は、前回詳しくお話しした「啓示」を意味しています。

 ですからここでも「神の啓示」が、クローズアップされていると言えます。

 しかもここで言う「啓示」は、17節18節の場合のように限定された内容では無く、神様による「啓示」の全体を意味しています。

 聖書の証しする神様は、まさに「私たちに語り掛けられる神」であられますが、その語り掛け、「啓示」の仕方には、大きく分けて二つあると考えられています。

 一つは「一般啓示」とか「自然啓示」という言葉で表現されています。

 これは、神様が創られたこの世界の全体を通して、創り主である神様のご性質が明らかにされているという考え方です。

 生物学者のパストゥールという人は、「この美しい自然と生物の研究は、私にとって、自然をつくりあげた全能の創造者の存在を知る道であった。」と語っています。

 20節の「神の、、神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ」という言葉は、この「自然による啓示」を表していると、広く受け止められています。

 また宗教改革者のカルヴァンも、このような被造物の中に現されている神様の素晴らしいご性質を強調した一人でした。

 しかしそのカルヴァンが、その最も代表的な著書『キリスト教綱要』の中では「自然による啓示」について次のように述べています。「それはちょうど、稲妻のひらめく夜、人が野原の真ん中を行くようなものである。一瞬ひらめく時には、遠く、広く見はるかす事が出来る。しかし、たちまちにして視界は消え去って、彼が一足すすめる前に、夜の闇の中に没してしまうのである。こうして、道をたどる上には全く助けにならないのである。」

 つまり「自然による啓示」には、どこまでも限界があるという事です。

 そこで神様は、私たちに「言葉と行為」によって、直接語り掛けて下さいました。

 これを「特別啓示」と呼ぶ人たちもいます。そして、その「特別な啓示」が書き留められた書物が「聖書」です。

 ヘブル人への手紙の1章1節2節にはこう書かれています。

 「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」

 この御子とは、イエス・キリスト様の事です。

 そして、そのお方によって語られ、成し遂げられた出来事を、私たちは「福音」と呼んでいます。

 ですから先ほどのヘブル人への手紙の言葉からも、「福音」こそ「最後の言葉」であると言う事ができます。つまり、イエス様の十字架と復活に至る全生涯を通して初めて「神について知りうることは」完全に「明らかにされた」という事です。

 パウロは、手紙の冒頭から17節に至るまでに、徹底して「イエス・キリストによる福音」について語って来ました。そして今日の箇所も、その文脈の中で語られています。ですから20節で「自然による啓示」についての言及している時にも、決してそれだけで神様を完全に理解できるという意味ではなく、むしろ、神様の愛の深さがイエス様の「十字架」によって、あれほどまでにはっきりと示されたというのに、それでも神様を「認め」、愛そうとしない人間の罪を「彼らに弁解の余地はない」という厳しい言葉で、激しく糾弾しているのです。

 今や、イエス・キリスト様の十字架の出来事を通して、神様と人間との間に本来的関係を回復する和解がもたらされたのだから、神様によって「造られたもの」を通しても、神様のご性質をより深く知ることができるようになりました。ここでの「造られたもの」とは、壮大な宇宙と自然界に止まらず、「不義をもって真理をはばんでいる」為に、あらゆる悲惨と苦しみの中にある私たち、全人類をも含んでいます。

 たしかに私たちは、イエス様の十字架の出来事を抜きにして、神様のご性質と愛の本性を理解することはできません。しかし反対に、もし私たちが、十字架の出来事とその意味を知っているならば、もはや神様の前に「弁解の余地は」ありません。

 そこで私たちが、誰かに福音を語る時には、聞く人々に救いの道を示すと同時に、裁きをも言い渡している事にもなります。ですから私たちは、決して福音を軽々しく語るべきではありません。むしろ、一つの魂の、永遠の状態を左右する言葉であることを覚えて、真剣さと祈りの心をもって語るべきです。

 

本論2)

 20節においてパウロは、神様のご性質を「目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」という言葉で表現しています。

 つまり神様は、本質的に「目に見えない」お方であるという事です。

 ヘブル人への手紙11章1節には「信仰は、、目に見えないものを確信させるものです。」と言われています。それなのに、私たちはつい、目に見えるしるしや出来事を期待してしまいます。

 ヘブル人への手紙11章2節には次のように続いています。

 「昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」

 そしてその後には、有名な信仰の勇者たちのリストが続いていますが、そこには、私たちが「信仰の勇者」という言葉を聞く時に、安易に想像してしまう、キリスト教的「成功主義」とは、全くかけ離れた「目に見えないお方に信頼して歩んだ」信仰者たちの姿が語られています。

 私たちがここから学ぶべきことは「目に見えない神の本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる」筈であるのに、私たちの「罪の目」が、それを覆い隠してしまっているのだということです。

 ここで使われている「知る」という言葉は、主に知的な理解を意味し、また「認める」という言葉は、主に感覚的な認識を意味しています。

 ですから私たちは、神様について、「知的」に理解を深めると共に、私たちの生活の只中で働かれる神様に対する「感覚」を研ぎ澄まさなければなりません。

類いまれな洞察力をもった一人のクリスチャン(キェルケゴール)は、かつて次のように祈りました。

 「主よ!無益なる事物に対しては我々の眼を霞ましめ、汝のあらゆる真理に関しては我々の眼を隈なく澄ましめ給え。」

 この祈りは、私たちが生まれつきに持っている「罪の目」に代えて、目に見えない神様のご性質を見極める「隈なく澄んだ眼」を与えて下さるようにと願う祈りです。そしてこのような祈りこそ、私たちが常に繰り返すべき祈りであると思います。

 さて、パウロは19節20節においては、人間が神様を知るという事についての罪から来る無能力、或いは、文字通り「知らん振り」をしている態度を問題としていますが、続く21節では、人間の神様に対する、より積極的な反抗を、厳しく指摘し、断罪しています。

 

本論3)

 神様に対して「弁解の余地のない」人間の行為の内で、最も著しいものは「神を神としてあがめない」ことです。

 人間が神様を知的に理解し、認識を深めるという事は、勿論必要な事ですし、また大切な事でもあります。しかし、それだけでは十分ではありません。

むしろ最も大切なことは、造られたものとして、その立場をわきまえ、創り主としての神様をあがめ、礼拝することです。

 神様に感謝し、礼拝する事は、神様を知的に認識することに勝っています。

神様を本当に知ることが出来るのは、まことの礼拝を通してのみであるからです。

 そして礼拝とは、神様が、今まさにこの場所に臨在しておられる事を認め、そのお方を喜び、誉めたたえ、或いは神様の御前に悔い改める事ですから、それは一方的なものでは無く、神様と私たちとの間に相互的な関係であり、またそこから生み出される結果が伴います。

 つまり、人は礼拝によって神様を知ると共に、神様に知られるという恵みをも受け取ることが出来るのです。そこで、まことの礼拝には、心からの感謝が伴います。

 パウロが21節で指摘している罪は、このようなまことの神礼拝が、行われていないという事でした。

 神様を礼拝することに、関係性と恵みが伴うように、神様を礼拝しない事にも結果が伴います。

 それは、神様の啓示の光を自ら拒む事によって、「その思いはむなしくなり、その無知な心は暗く」なる事であると聖書は述べています。

 まことの神様を認めず、礼拝しない人間は、もはやその本来あるべき姿を失います。

 人間は、神様との関係性を築き、その結果、共に喜ぶようになる為に創造されたものです。

 ですから、神様から離れては、その本来の目的を失って、さまよってしまいます。

 その歩みは、まさに「むなしく、暗い」ものとなります。

 今日、多くの人々が目的を失い、むなしさの中を歩んでいます。その希望のない心は、まさに暗闇をさまよっています。

 問題は、神様を神様として認め、あがめないという罪です。

 その結果人間は、22節以降に説明されているような状態に陥ります。

22節23節朗読。

 ここに指摘されているのは、偶像礼拝の罪です。皆さんは恐らく、この言葉を聞いても、自分はそのような愚かな事は行っていないと思われるでしょう。

 確かに現代人である私たちは、もはや鳥や獣の像を拝む愚かさには気付いています。しかし、それに代わる、新しい朽ちる像を刻んで、自らの究極の忠誠を捧げているのではないでしょうか。

 ここで20世紀初頭に活躍したクリスチャンの小説家、フルトン・アワズラーが、実際に経験したエピソードを、彼の文章をなるべくそのままに紹介したいと思います。

 

 あの素晴らしいヨットの思い出は、今となっては現実では無く、夢であったような気がする。

 そのヨットは頑丈に造られ、快速力で、望みの場所へ行く能力を持っていた。また、如何なる嵐をも乗り切れる構造に設計されていた。しかもそのヨットは、所有者や客人たちを、楽しませる事だけを目的に造られていた。

 その所有者は、「ウォール街の一匹狼」と呼ばれていたジェシー・リバモアであった。貧しい少年に始まって、努力と機会とを得て財を成し、そしてこれを失った人であった。

 リバモアが、買ったり売ったりしたヨットの数は、少なく見ても1ダースを越えていた。しかも、私が招待されて乗ったのは、それらの内でも、ずば抜けて立派なヨットであった。

 中には、山海の珍味とブドウ酒が積み込まれ、まるで浮かぶ王城であった。

 その夜、お客たちは、船尾に張り出した甲板に座って、主人の話に聞き入っていた。

 ジェシー・リバモアは、今晩シカゴ・ホテルで開かれている金持ち連中の集まりを欠席したのだ、と言った。その集まりに参加しているのは、すべて百万長者と呼ばれている人々ばかりであった。中には、全世界の金融を支配している人物もいた。

 そして、何と言っても第一人者は、スウェーデンのマッチ・メイカーとして名高いアイバー・クロイガーであった。

 マッチ・メイカーと言っても、いわゆる愛の女神・キューピッドの役割を演じる方では無くて、販売する方で、彼が販売した火によって燈し出したのは、栄誉と共に内閣をも威圧する権力であった。

 アーサー・カットンもいた。彼は小麦の投機に掛けては並ぶ者が無く、彼の一言が、貧しい人々の食品価格を上下させた。

 もう一人の大人物は、時の大統領の内務長官をしているアルバート・フォールであった。

 そして、集まりに欠席したジェシー・リバモアその人は、あらゆる場面で機会をものにしえた人物である。

 私は、それらの人々に共通している資格は何であるのか質問してみた。

 リバモアは、次のように答えた。

 あの人達は、みんな時の権力をも左右する力を持っている。お金そのものの為に、お金に執着する事は無く、金の力は権力を得る為の手段として使われている。

 そこで私は、重ねて尋ねた。その人達は、その権力をどのように用いたか。どのようにして、この世に祝福を与えたか。どのようにして隣人を助けたか。子供たちが彼らを称える歌を歌ったか。彼らの名前を聞いただけで、感謝の涙を流す母親たちがいたのだろうかと。

 私の質問に端を発して、次々に議論が繰り広げられたが、その議論の影響を受けてか、リバモアから富豪の影は薄くなってしまった。あたかもそれは、夏の夜の快い風が、急に肌を刺すような、冷風に変わってしまったかのような感じであった。

 ついに、誰もが予定より早めに寝室へひきあげてしまった。

 それから何年か経過したが、私はジェシー・リバモアのヨットで過ごした夜の思い出が、しばしば脳裏をかすめた。実はこの間に、あの権力を誇示した人々の身に起こった出来事は、世間を驚かせたのである。

 アイバー・クロイガーは自殺した。

 アルバート・フォールは内閣の官僚をしている時、賄賂を受け取って投獄されていた。

 アーサー・カットンは負債を返済しきれず、ヨーロッパで客死した。

 これらの人々の晩年は、いずれも悲劇に付きまとわれていた。

ジェシー・リバモアを除いて、悲劇は彼らの死の間際まで、離れなかった。

 そしてある夜、私がラジオのニュースを聞いていると、あの素晴らしいヨットに招待して、シカゴ・ホテルの集まりの話しをしてくれた人の運命が報じられた。

 ジェシー・リバモアは、あるホテルの洗面所で、頭をピストルで撃ち抜いた、と言うのである。

 なぜなのだろうか。

 

 アワズラーによる、この「なぜなのだろうか。」という問いには、深い悲しみが込められています。彼によって、このエピソードに付けられたタイトルは『悲劇の人々』でした。

 そしてアワズラーは、エピソードの締めくくりとしてマタイの福音書16章26節の聖句を引用しています。

 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」

 「まことのいのち」は「まことの神様を礼拝すること」によってのみ、得ることが出来ます。

 現代の多くの人々が崇める新しい朽ちる像は、今のたとえばなしの中にはっきりと描き出されていたと思います。また、私たちは、お金や権力だけでなく、自分自身の才能、或いは理想の生活や人間関係をも偶像としてしまいます。

 何であれ、まことの神様以外のものを頼りにし、また熱中して究極の忠誠を捧げるならば、それは偶像礼拝であり、この偶像礼拝こそが、私たち人間の最大の罪であり、悲劇です。

 この罪に対して、今日も、神様の怒りが啓示されているのだと聖書は言っています。

 お祈り致しましょう。