2011年9月4日「バプテスマは受けたが」兼松 一二師 : 使徒の働き 8章14‐25節

私たちの日常生活で、うれしいことばがあります。

「ありがとう」

クリスチャンとして、きいてうれしいことばがあります。

「あなたは本当に変わったね」ということばです。

前はやんちゃだったのに、教会へ行くようになって人にやさしくなったね。前は暗い顔していたのに、前向きになって、生き生きして、変わったね。

使徒8章14‐24節では、ひとりの人シモンという人が、イエスさまを信じますとバプテスマは受けたが、彼の考え方、生き方、そして性質も、何も変わっていなかった。そういう人の問題点は何かを考える。

第一、14‐17節、あるひとつの教会、サマリヤ教会の共通した問題をみる。

ここに、エルサレムにいる使徒たちとサマリヤの人々がでてきます。これは言い換えると、エルサレム教会とサマリヤ教会と言ってもよい。エルサレム教会は沢山の人々が信じて大きな教会になっていると共に、イエスさまの訓練をうけた使徒たちがいた。使徒たちがイエスさまから聞いたことを伝え、イエスさまのことを見たので、特に、十字架で死んだイエスさまが三日目に甦られたことを証言(あかし)した。その証言があるという意味で権威があった。

今、サマリヤにピリポが伝道して、サマリヤの教会ができてきた。ところがこのサマリヤ教会に集まっている教会員に共通して欠けているものがあった。「聖霊を受けていない」ということでした。使徒たちの目にこのことが明らかでした。

 

その前にひとつ、大切なことがある。エルサレム教会にいる人々はどうして二人の使徒たちを派遣したのか。それは、新しく生まれてくる教会が、キリスト教の最初の教会とひとつに結ばれていくためです。これまでの教会と新しい教会が結ばれていく中で、聖い、高い兄弟愛が育ち、力を得ていく。神さまは新しいところに聖書の教えを伝えると共に、イエスさまにあって結び合わせ、ひとつの教会にしていかれる。エルサレムのユダヤ人と、サマリヤ人は人種が違い、風習も違う。ユダヤ人とサマリヤ人には人種的分裂があった。ですから教会も分裂しがちであった。そして新しい教会を立ち上げ、新しいタイプの教会だと唱える危険性があった。使徒たちは大人として、人種的なものを超え、キリスト教と言いながらキリスト教とは違ったタイプの教会にならないために、新しい教会、新しいクリスチャンたちとキリスト信仰をひとつにするために出ていった。

私たちの友愛キリスト教会も新しい教会です。果たしてこの新しい教会が、これまでの正統なキリスト教と同じキリスト教信仰をもっているか。

何をもって、ひとつの教会と結ばれている、と言えるのでしょうか。

 

ここで、14節「ペテロとヨハネが出て行った」とは書いていない。「エルサレム教会にいた健全な信仰をもっている人々が、ペテロとヨハネを遣わした」とあります。キリストについての、正しい、生きている信仰をもって、共に喜んでいくように励ます意味で遣わした。ところがサマリヤ教会の人々に共通して「聖霊をうけていない」ことが明らかだった。

 

12‐13節、サマリヤの人々はイエスさまのことを聞いて信じた。信じてバプテスマを受けた。14節、神のことばを受け入れた。イエスさまをきいて信じる、というのは聖霊による。信じてバプテスマを受けるという信仰も聖霊の働きによる。

それならば、どういう意味で「聖霊を受けていない」というのか。

ローマ8章9‐17節、特に9、16、17節より、キリストを信じている私は神の子どもです。また、キリストのものです。その自覚があるか、ということ。私はキリストのものです、キリストに自分をささげている。だからまずみことばを読み、また奉仕をし、キリストのものですからキリストの教会の集会に出る。誤りも、暗さも、偽りもない、誇り高い父に信頼し、キリストに自分をささげる生活をする。それゆえのキリスト者の明るさ、喜びと誇りをもって仕える姿、これらは自分がキリストのものであるという証しであり、聖霊を受けている証しです。一言で、聖さが表れている。

 

サマリヤの教会は神のことばを知的に受け入れていたが、信じて聖くなっていく姿がみられなかった。依然として、自分が幸せになるための信仰、物事がうまくいくための信仰だった。

聖霊を受けよ。

 

第二、18‐24節、シモンについて。シモンは13節、信じた。確かに信じた。信じたふりをしたのではない。しかし問題がある。ルカ8章の種蒔きのたとえにある、14節、いばらの中に種が落ちるように、この世の心づかい、富、快楽によってふさがれた。シモンの問題点を見よう。

 

使徒8章19節、ここでシモンは「私にも聖霊を受けられるようにして下さい」と言わず「人に聖霊を与えていく権威を下さい」と言っている。人に聖霊を与えるようになったら、教会の中で大先生と崇められるようになるだろう。人に聖霊を与えるほどの権威は、ただではいただけないだろう。だから巨額のお金を出そう、とお金を差し出しました。するとペテロは「金と共にあなたは滅んでしまえ」と言った。23節、また「苦い胆汁と不義のきずながある」とは、使徒8章9節での考えであり、つまり野心です。

 

この腐れきった野心家よ、滅んでしまえ。と言ったものの、神のあわれみにはまだチャンスがある。そこでペテロは22節「悪事を悔い改めなさい。そうしたら、もしかして赦されるかもしれない。」と伝えた。しかし24節、シモンは「私が間違っていました、赦して下さい」と言っていない。「滅びることがないように祈って下さい」とお願いする。謝らない。サマリヤ教会にこういう罪の悔い改めのない人がいた。悔い改めのない信仰、それは信仰をもっていない人と全く同じで、信仰をもっていなかった時代の自分と今と全く同じく、変わっていない。腐れきった野心をもっていることは、自分をキリストに明け渡していないということです。

 

ある時、フライパンで肉を焼いた。その中の一切れの肉だけ厚かった。フライパンでよく焼きこがしたと思った。薄い肉は中まで火が通っていておいしかった。ところが厚い肉は、表面は焼けていたが、中まで火が通っていなかった。

私たちの心の奥まで神の光のことばが通っていたら、神はどんなに喜ばれるか。しかし、日々の悔い改めのない信仰ならば、生焼けのようで表面だけ焼け、中身は腐れきった野心でいっぱいなら、その人につながる周りの人までも害を受けていかないか。

 

主よ、私をあなたに明け渡していきます。

最後に皆で、8章22節を読んで終わりましょう。

「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」

第一、1417節、あるひとつの教会、サマリヤ教会の共通した問題をみる。

ここに、エルサレムにいる使徒たちとサマリヤの人々がでてきます。これは言い換えると、エルサレム教会とサマリヤ教会と言ってもよい。エルサレム教会は沢山の人々が信じて大きな教会になっていると共に、イエスさまの訓練をうけた使徒たちがいた。使徒たちがイエスさまから聞いたことを伝え、イエスさまのことを見たので、特に、十字架で死んだイエスさまが三日目に甦られたことを証言(あかし)した。その証言があるという意味で権威があった。

今、サマリヤにピリポが伝道して、サマリヤの教会ができてきた。ところがこのサマリヤ教会に集まっている教会員に共通して欠けているものがあった。「聖霊を受けていない」ということでした。使徒たちの目にこのことが明らかでした。

 

その前にひとつ、大切なことがある。エルサレム教会にいる人々はどうして二人の使徒たちを派遣したのか。それは、新しく生まれてくる教会が、キリスト教の最初の教会とひとつに結ばれていくためです。これまでの教会と新しい教会が結ばれていく中で、聖い、高い兄弟愛が育ち、力を得ていく。神さまは新しいところに聖書の教えを伝えると共に、イエスさまにあって結び合わせ、ひとつの教会にしていかれる。エルサレムのユダヤ人と、サマリヤ人は人種が違い、風習も違う。ユダヤ人とサマリヤ人には人種的分裂があった。ですから教会も分裂しがちであった。そして新しい教会を立ち上げ、新しいタイプの教会だと唱える危険性があった。使徒たちは大人として、人種的なものを超え、キリスト教と言いながらキリスト教とは違ったタイプの教会にならないために、新しい教会、新しいクリスチャンたちとキリスト信仰をひとつにするために出ていった。

私たちの友愛キリスト教会も新しい教会です。果たしてこの新しい教会が、これまでの正統なキリスト教と同じキリスト教信仰をもっているか。

何をもって、ひとつの教会と結ばれている、と言えるのでしょうか。

 

ここで、14節「ペテロとヨハネが出て行った」とは書いていない。「エルサレム教会にいた健全な信仰をもっている人々が、ペテロとヨハネを遣わした」とあります。キリストについての、正しい、生きている信仰をもって、共に喜んでいくように励ます意味で遣わした。ところがサマリヤ教会の人々に共通して「聖霊をうけていない」ことが明らかだった。

 

1213節、サマリヤの人々はイエスさまのことを聞いて信じた。信じてバプテスマを受けた。14節、神のことばを受け入れた。イエスさまをきいて信じる、というのは聖霊による。信じてバプテスマを受けるという信仰も聖霊の働きによる。

それならば、どういう意味で「聖霊を受けていない」というのか。

ローマ8917節、特に91617節より、キリストを信じている私は神の子どもです。また、キリストのものです。その自覚があるか、ということ。私はキリストのものです、キリストに自分をささげている。だからまずみことばを読み、また奉仕をし、キリストのものですからキリストの教会の集会に出る。誤りも、暗さも、偽りもない、誇り高い父に信頼し、キリストに自分をささげる生活をする。それゆえのキリスト者の明るさ、喜びと誇りをもって仕える姿、これらは自分がキリストのものであるという証しであり、聖霊を受けている証しです。一言で、聖さが表れている。

 

サマリヤの教会は神のことばを知的に受け入れていたが、信じて聖くなっていく姿がみられなかった。依然として、自分が幸せになるための信仰、物事がうまくいくための信仰だった。

聖霊を受けよ。

 

第二、1824節、シモンについて。シモンは13節、信じた。確かに信じた。信じたふりをしたのではない。しかし問題がある。ルカ8章の種蒔きのたとえにある、14節、いばらの中に種が落ちるように、この世の心づかい、富、快楽によってふさがれた。シモンの問題点を見よう。

 

使徒819節、ここでシモンは「私にも聖霊を受けられるようにして下さい」と言わず「人に聖霊を与えていく権威を下さい」と言っている。人に聖霊を与えるようになったら、教会の中で大先生と崇められるようになるだろう。人に聖霊を与えるほどの権威は、ただではいただけないだろう。だから巨額のお金を出そう、とお金を差し出しました。するとペテロは「金と共にあなたは滅んでしまえ」と言った。23節、また「苦い胆汁と不義のきずながある」とは、使徒89節での考えであり、つまり野心です。

 

この腐れきった野心家よ、滅んでしまえ。と言ったものの、神のあわれみにはまだチャンスがある。そこでペテロは22節「悪事を悔い改めなさい。そうしたら、もしかして赦されるかもしれない。」と伝えた。しかし24節、シモンは「私が間違っていました、赦して下さい」と言っていない。「滅びることがないように祈って下さい」とお願いする。謝らない。サマリヤ教会にこういう罪の悔い改めのない人がいた。悔い改めのない信仰、それは信仰をもっていない人と全く同じで、信仰をもっていなかった時代の自分と今と全く同じく、変わっていない。腐れきった野心をもっていることは、自分をキリストに明け渡していないということです。

 

ある時、フライパンで肉を焼いた。その中の一切れの肉だけ厚かった。フライパンでよく焼きこがしたと思った。薄い肉は中まで火が通っていておいしかった。ところが厚い肉は、表面は焼けていたが、中まで火が通っていなかった。

私たちの心の奥まで神の光のことばが通っていたら、神はどんなに喜ばれるか。しかし、日々の悔い改めのない信仰ならば、生焼けのようで表面だけ焼け、中身は腐れきった野心でいっぱいなら、その人につながる周りの人までも害を受けていかないか。

 

主よ、私をあなたに明け渡していきます。

最後に皆で、8

第一、14‐17節、あるひとつの教会、サマリヤ教会の共通した問題をみる。

ここに、エルサレムにいる使徒たちとサマリヤの人々がでてきます。これは言い換えると、エルサレム教会とサマリヤ教会と言ってもよい。エルサレム教会は沢山の人々が信じて大きな教会になっていると共に、イエスさまの訓練をうけた使徒たちがいた。使徒たちがイエスさまから聞いたことを伝え、イエスさまのことを見たので、特に、十字架で死んだイエスさまが三日目に甦られたことを証言(あかし)した。その証言があるという意味で権威があった。

今、サマリヤにピリポが伝道して、サマリヤの教会ができてきた。ところがこのサマリヤ教会に集まっている教会員に共通して欠けているものがあった。「聖霊を受けていない」ということでした。使徒たちの目にこのことが明らかでした。

 

その前にひとつ、大切なことがある。エルサレム教会にいる人々はどうして二人の使徒たちを派遣したのか。それは、新しく生まれてくる教会が、キリスト教の最初の教会とひとつに結ばれていくためです。これまでの教会と新しい教会が結ばれていく中で、聖い、高い兄弟愛が育ち、力を得ていく。神さまは新しいところに聖書の教えを伝えると共に、イエスさまにあって結び合わせ、ひとつの教会にしていかれる。エルサレムのユダヤ人と、サマリヤ人は人種が違い、風習も違う。ユダヤ人とサマリヤ人には人種的分裂があった。ですから教会も分裂しがちであった。そして新しい教会を立ち上げ、新しいタイプの教会だと唱える危険性があった。使徒たちは大人として、人種的なものを超え、キリスト教と言いながらキリスト教とは違ったタイプの教会にならないために、新しい教会、新しいクリスチャンたちとキリスト信仰をひとつにするために出ていった。

私たちの友愛キリスト教会も新しい教会です。果たしてこの新しい教会が、これまでの正統なキリスト教と同じキリスト教信仰をもっているか。

何をもって、ひとつの教会と結ばれている、と言えるのでしょうか。

 

ここで、14節「ペテロとヨハネが出て行った」とは書いていない。「エルサレム教会にいた健全な信仰をもっている人々が、ペテロとヨハネを遣わした」とあります。キリストについての、正しい、生きている信仰をもって、共に喜んでいくように励ます意味で遣わした。ところがサマリヤ教会の人々に共通して「聖霊をうけていない」ことが明らかだった。

 

12‐13節、サマリヤの人々はイエスさまのことを聞いて信じた。信じてバプテスマを受けた。14節、神のことばを受け入れた。イエスさまをきいて信じる、というのは聖霊による。信じてバプテスマを受けるという信仰も聖霊の働きによる。

それならば、どういう意味で「聖霊を受けていない」というのか。

ローマ8章9‐17節、特に9、16、17節より、キリストを信じている私は神の子どもです。また、キリストのものです。その自覚があるか、ということ。私はキリストのものです、キリストに自分をささげている。だからまずみことばを読み、また奉仕をし、キリストのものですからキリストの教会の集会に出る。誤りも、暗さも、偽りもない、誇り高い父に信頼し、キリストに自分をささげる生活をする。それゆえのキリスト者の明るさ、喜びと誇りをもって仕える姿、これらは自分がキリストのものであるという証しであり、聖霊を受けている証しです。一言で、聖さが表れている。

 

サマリヤの教会は神のことばを知的に受け入れていたが、信じて聖くなっていく姿がみられなかった。依然として、自分が幸せになるための信仰、物事がうまくいくための信仰だった。

聖霊を受けよ。

 

第二、18‐24節、シモンについて。シモンは13節、信じた。確かに信じた。信じたふりをしたのではない。しかし問題がある。ルカ8章の種蒔きのたとえにある、14節、いばらの中に種が落ちるように、この世の心づかい、富、快楽によってふさがれた。シモンの問題点を見よう。

 

使徒8章19節、ここでシモンは「私にも聖霊を受けられるようにして下さい」と言わず「人に聖霊を与えていく権威を下さい」と言っている。人に聖霊を与えるようになったら、教会の中で大先生と崇められるようになるだろう。人に聖霊を与えるほどの権威は、ただではいただけないだろう。だから巨額のお金を出そう、とお金を差し出しました。するとペテロは「金と共にあなたは滅んでしまえ」と言った。23節、また「苦い胆汁と不義のきずながある」とは、使徒8章9節での考えであり、つまり野心です。

 

この腐れきった野心家よ、滅んでしまえ。と言ったものの、神のあわれみにはまだチャンスがある。そこでペテロは22節「悪事を悔い改めなさい。そうしたら、もしかして赦されるかもしれない。」と伝えた。しかし24節、シモンは「私が間違っていました、赦して下さい」と言っていない。「滅びることがないように祈って下さい」とお願いする。謝らない。サマリヤ教会にこういう罪の悔い改めのない人がいた。悔い改めのない信仰、それは信仰をもっていない人と全く同じで、信仰をもっていなかった時代の自分と今と全く同じく、変わっていない。腐れきった野心をもっていることは、自分をキリストに明け渡していないということです。

 

ある時、フライパンで肉を焼いた。その中の一切れの肉だけ厚かった。フライパンでよく焼きこがしたと思った。薄い肉は中まで火が通っていておいしかった。ところが厚い肉は、表面は焼けていたが、中まで火が通っていなかった。

私たちの心の奥まで神の光のことばが通っていたら、神はどんなに喜ばれるか。しかし、日々の悔い改めのない信仰ならば、生焼けのようで表面だけ焼け、中身は腐れきった野心でいっぱいなら、その人につながる周りの人までも害を受けていかないか。

 

主よ、私をあなたに明け渡していきます。

最後に皆で、8章22節を読んで終わりましょう。

「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」

 

22節を読んで終わりましょう。

「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈りなさい。あるいは、心に抱いた思いが赦されるかもしれません。」