2011年9月18日「亡くなった人は?(合同記念礼拝)」兼松 一二師 : 使徒の働き 9章1‐9節

今日の礼拝は故人を偲ぶ、合同記念礼拝です。

第一、故人を偲ぶ時をもちたい。

故人は、どのようにして亡くなられたのかを思い起したい。病気で亡くなられたのでしょうか。病気で亡くなられたのなら、何歳で亡くなられても、神さまから与えられた寿命を全うして生き抜かれたと理解したい。病気以外の死もあります。私の父の弟、叔父は戦死でした。戦争にかり出され、敵の銃で撃たれて死んだ。今の時代、自動車事故で亡くなる方もいる。

 

故人と、今ここにおる私たちとは、どんな関係だったであろうか。

親しい信頼の関係だったでしょうか。本当に助け合いの関係だったでしょうか。ある場合は、この世で生きている間、理解し合えないままで終わってしまった。しかし今、整理がついていますということもあるでしょうか。

 

故人は、神さまとどんな関係だったでしょうか。それは故人と神さましかご存知ない。私たちが分っていることは、神さまはお一人おひとりに計画をもってこの世に生まれさせ、愛しつづけられたということです。その証拠に、神のひとり子イエス・キリストをこの世にお送り下さったということです。このことだけは私たちの間でしっかりと理解し、受け止めたい(ヨハネ3:16)。

 

第二、先に死にはいろいろな死があると申しましたが、1節「サウロは主の弟子たち(クリスチャンたち)への脅かしと殺意に燃えていた」ということは、クリスチャンへの迫害をした。それで多くのクリスチャンたちは死んでいった。このような死を殉教死と言います。この美濃地方、尾張地方ではきびしい迫害があり、過去の歴史で多くのクリスチャンたちが殉教死したようです。なぜ迫害したのか。理解不能だったからです。迫害する人たちは、キリスト教の道を理解していない。誤解したことによる。キリスト教の信仰の道を誤解して、クリスチャンたちを殺してしまった。

 

殺意に燃え、そして実際、クリスチャンたちを殺してしまうが、殺意に燃えて殺していくことを恐ろしい悪であると感じないのか。このことについて、二つの答えがある。人を迫害し、殺意に燃え、人を殺していても悪いと考えない、悪いとも感じないときがある。どんな時か。1-2節「大祭司の許可書をいただいている時」です。これは宗教的権力者の許可書が下ったときともいえる。あるいは国家権力者が殺すことを許し認めたとき、若者は殺意がさらに燃える。

 

悪いと感じないもう一つの時は、7:57-8:1、若者サウルは大人の悪いものを見ていた。大人たちが群をなしてクリスチャンを殺していった。それを見た若者は見習ってしまう。大人たちを見習っていると思っている限り、若者は、悪い、恐ろしいことを言い、行っていながら、悪いと思わない。手本が悪い。大人の方々よ、今、日本は混沌としてきました。仕事がない、あっても不安定な雇用である。そればかりか日本は永久に、自然災害が切れ目なくやってくる。地震、津波、火山爆発、大雨は毎年何回もやってくる。そして電力に頼る限り、核燃料廃棄物処理はどうしようもないことが分った。大人たちが良識を亡くしたら、混沌とし恐ろしくなる。大人たちが手本になる考えをしないと、若者は恐ろしい悪を行っても悪いとも考えず、悪いとも感じない。

 

しかし恐ろしい悪を行い、それがひどい悪で、とり返しのつかないことをしてしまったと分り悔やむ時がある。どんな時か。イエスさまの声、イエスさまの言葉を聞く時だ。3-5節、サウロ、サウロ。という呼びかけの声を聞いた。今日、イエスさまは私たちにあなたの名で呼びかけている。

 

5節、あなたはどなたですか。イエスである。イエスは十字架で、十字架につけられて死んだのではないのか。そう、確かに死んだ。しかし今は復活して生きている。わたしは、生きているイエスである。この時、サウロはぶっ倒れた。イエスは死んだのではないか。クリスチャンたちはイエスは復活したと言っていた。私は、死んだ方が復活するなど信じられない。理解できないので、クリスチャンたちはでたらめだと考え、迫害してきた。しかし今、復活して生きておられるイエスさまの声を聞いた。私の、私の間違いだった。私は間違っていた。

 

誰でもイエスさまの声、イエスさまの言葉を聞きとったら、真実が分る。

 

ある方が誇りをもち、胸をはって、いつも私に話してくることがあった。「私は若い時、職業軍人だった。白馬にまたがり、戦争の中で人々を指揮した」戦後も、このことが自慢でした。ところが、家庭で三人の子が生れたが、一人、知恵遅れの子が生れた。この子のことで悩み、もう大人になったが悩んで教会へ来た。最初は職業軍人の自慢話だけでした。ところが、聖書を読み、イエスさまの教えのことばを読んで、心に受け入れた。ある時、「戦争はするもんじゃない、平和な世になって、やっとわかったが、戦争ほど愚かなことはない。それにしても、戦争の時、銃を撃ったことは何度かあったが、一度も人に当らなかった。弾が当らなかったことは下手なことでなく、神さまのあわれみだ」イエスさまがこの方の心に光を与え、何が罪で、どうしたらよいのか教えてくれた。

 

サウロはイエスさまの声、ことばを聞いた時、8,9節、三日間、何も見えなかった。この何も見えない三日間は、自分のしたことを徹底してイエスさまに諭され、心がイエスさまに向けられた時でした。こういう時間をもつ人は自分のした間違いを分る。そして新しいあり方をしっかり培っていく。