2011年10月16日「主の力の宣教」兼松 一二師 : 使徒の働き 9章31‐43節

昨夜、部屋にさげているカーテンが目に入った。日中は縛っているから何も考えないが、夜は引いて広げますから、カーテンがあるのが感じられる。今さげているカーテンには思い入れがある。

カーテン屋さんが私にこう言った。「カーテンなんて、なくても済むものですが、夜になるとどうしても必要です。いや昼でも、カーテンがあると部屋がひきしまります。私の織っているカーテン布地は、他とは全く違います。ぜひあなたの家に、私の織ったものをさげて下さい」”私の織っているカーテン布地は他とは全く違う”ということばの通り、他に二つとない絵柄のカーテンを見て、彼を思い出した。カーテンなんて、どこにでも売っている。古くなったら、新しいものに変えられる簡単なものですが、他に二つとないカーテンを見て大事にしていこうと思った。

実は、私たち一人一人、他に二つとない者で、神さまにとって大事な存在です。

 

今日の9章31-43節は、31、32-35、36-43と三区分できる。

第一、31節「こうして教会は築き上げられ、……前進し続けた」ここに名前は出てこないが、この31節は28-30節の「サウロ」と深くかかわっている。サウロという人は最初、キリスト教は間違った教えをしていると激しくクリスチャンたちを迫害した。キリスト教は間違っていると言えるほどの頭脳をもっていた。人を迫害するほどの迫力のある人でした。

何が間違いか。「死んだイエスさまが復活したというのは、常識から考えると間違いだ。」ところが、このサウロはイエスさまと出会った。

イエスさまは確かに復活したと分ると、28-30節、イエスさまを信じ、クリスチャンになった。そしてイエスさまの弟子たちと面会し、イエスさまのことを人々に話し続けた。周りの人々に、ユダヤ人に反対されても、イエスさまは確かに生きていると、たじろがず、大胆に伝道した。サウロがクリスチャンになり大胆に伝道するようになったことが「教会は築き上げられ」ることにつながったのです。

この築き上げる(oἰκοδομέω)とは「家を建てていく」という意味です。家を建てるとき、設計、材料があり、そして土台と柱は、一旦造り据えると動かせない部分です。神の設計、計画に立って据えられた土台はイエスさまで、柱は12弟子でしたが、もう一つサウロという柱が加わって、教会はだんだん築き上げられ、前進してきた。私たちも確かにイエスさまを信じ、イエスさまに仕えていくとき、教会は築き上げられていく。「教会」というのは、この教会ひとつのことを言っているのでない。各地に散在するキリストの教会です。広い意味での、色々な教会がひとつとして括られている教会です。その広がりのある教会は、イエスさまに回心し、立ち返った一人のクリスチャンによって築き上げられ、前進していくのです。その理解と自覚をもっていきましょう。

 

第二、32-35節、パウロだけが大切なのではなく、ペテロも大切です。ペテロがルダという町に住む、アイネヤと会う。アイネヤは33節、8年間中風であった。このアイネヤはペテロによってこう言い渡される。34節「アイネヤよ、イエス・キリストがあなたをいやして下さる」アイネヤは中風の病をいやされた。

私は病気をもっている者としてうらやましい。そのことと共に、現実的に考え悩むのは、私たちの目の前に立てられている病院です。国や世界が大変困難な中で、順調に大きくなるのは病院です。益々、だんだんと、病院は拡張されています。私はイエスさまによっていやして頂きたい。ではそう考えた時、病院、医療、医学を、私たちはどう考えるのか。私は考えあぐねて、クリスチャンの医者に探りを入れた。「病院に行って初めて、医学は進歩していると肌で感じるね。例えば、私の目の病です。目の玉の奥の部分を顕微鏡で見ながらメスを入れる。どんな病気も治せないものはない程ですね」すると医者は「神さまは、そこまで人間に立ち入ることを許したんですね」と答えた。「けれども、治せないこともたくさんあります」とも加えた。

神さまは、ある人にはこの方法で癒し、ある人には別の方法で癒す。ある人の病気は、一年も経たないうちに癒し、ある人の病気は、8年、38年も経って癒される。けれども、癒されているというのは、ある期間だけです。そうとしか言えない。

 

第三に、36-43節、ヨッパに旅をしたペテロは、タビタという女性のクリスチャンが死んだところに出会った。

38節、ここを見て「おや、いつもと違う」と思いませんか。

多くの人々、私たちもそうです、病気になった時とか死にかかった時に「どうぞ、来て祈ってください」と頼む。死んでしまったら、もう来なくてもいいですと言う。ところがここでは、タビタが死んでしまって埋葬の儀式に入っているのに「ペテロ先生、すぐに来て下さい」と言う。

何を思って、ペテロを呼んで祈ってもらおうとしたのか。

39節、タビタ(別名ドルカス)が生きていたころ、色々な衣服をつくってくれたと、やもめたちが泣きながら話した。36節、タビタのよい業と施しというのは、特にやもめたちへの裁縫と、生活の世話をしたことであると分ります。このようなよい業や施しをする人を失うことは惜しいです。もっと長生きできるようにして下さい、と。

私は日常生活や毎日の仕事をするたびに思う。ある仕事をする時、道具を使う。この機械はあの方に頂いた。ある公の場にいく時、服を着る。この背広はあの方に頂き、このネクタイはあの方に頂いた。くださった方は私を励まそうと贈って下さった。ただ私たちはその中で、よい業をして下さる方に頼ってしまう。よい業をして下さる方がおると助かるという心を持ち続けたままでは、信仰をもったため、よいクリスチャンに頼るという仕組みになる。

今ペテロは、亡くなった素晴らしいクリスチャンを生き返らせることにより、42節「主を信じる」信仰に向けていく。よい業をするクリスチャンでも死ぬ。よいクリスチャンに頼る程度の信仰でなく、死んだ者をも生き返らせる主を信じるように。

主は、必要とあらばいやし、生き返らせる御業を行われる。この主、絶大な力を持つ、深く信頼できる主を信じるなら、力を受ける。

35節、42節。

「主を信じる」このことを”消化”しよう。