2011年10月23日「コルネリオの回心の意味」兼松 一二師 : 使徒の働き 10章1‐33節

ある秋のこと、運動会があった。こどもの100m競争があった。あるお母さんが自分のこどもが走ることになったので応援した。「ガンバレ!」よーい、ドン。こどもたちは走った。25mすぎると、そのこどもはだんだん遅れた。「負けるな、ガンバレ」しかしどんどん遅れて、50mぐらいになるとビリになった。「ガンバレ」と言ったが、こどもが苦しそうな顔で走っているのを見たとき、お母さんは叫んだ。「ビリでもいいから、遅くてもいいからね!」そのこどもはビリの大差でゴールした。その晩、「大丈夫?走るのはダメなんだね。でも、勉強でガンバッテよ」その子はとても成績がよかった。しかし母親は「勉強ができても、悪いことをしたり、気難しい子になってはいけない」と、こどもを教会に送ってくれた。この母親と話していて感じた。私たちは誰でも、こどもの色々な面の成長を願う。私たちの神様も、私たちが色々な面で成長していくことを願っておられる。

今日の箇所にはコルネリオの回心が記されている。1-8節はコルネリオのこと、9-23a節はペテロの幻、23b-33節はペテロとコルネリオの出会い。

 

第一に、1-8節、異邦人コルネリオの身分と働き、そして信仰を見る。

コルネリオは、イスラエルのカイザリヤで百人隊長をしていたイタリア人です。ローマ帝国がイスラエルを支配していましたが、ユダヤ人の反乱が起るかもしれないということから、ローマ帝国は警戒して、イタリヤ人だけで組まれた軍隊をカイザリヤに置いた。その隊のトップに立っていた。えり抜きの軍隊のトップです。

軍隊というのは、しっかりと規律を守っている…と思いたい。しかし外から見ると規律をもっているようでも、兵隊一人一人の心の中は、いつも神経がピリピリしている。そしていつ、その緊張がゆるむか分らない。例えば2001年、テロリストが大事件を起してから、アメリカ軍は何万人もの軍隊をアフガンやイラクに送った。アメリカの兵隊は神経がピリピリして、交替して自分の国に戻った半分以上の兵隊は心の病になり、生活が乱れているとドキュメンタリーで報告された。そしてもうひとつ、日本の沖縄にいるアメリカ人兵隊は、ひんぱんに沖縄の若い女子に暴行をし、沖縄の人はうんざりしている。規律があると思いたいが、軍隊の内部は心がゆるみ乱れている。それを統括するのが隊長です。隊長であっても、乱れがちで横暴になりやすい。

ところがコルネリオは2節、敬虔で家族をもしっかり守り治めている。この敬虔は本物と証しできる。「全家族と共に神を恐れ、いつも神に祈りをしていた」全家族を神さまに向かわせている。そのために「いつも神に祈る」。

家族って、本音のウラ話をするところです。家族で心の本音のことを言い合う。そこに神さまの恵みについての話し合いがあり、神さまのことばについて語り合い、そのあとでひとりになって、神さまに祈る。神に祈り、神と話し合うことが神さまを確実に体験していく方法です。そして他の人、しかも他民族に施しをしたのがコルネリオという人物です。7節、その上コルネリオは、部下を神さまに導いている。自分の身の回りの世話をする「しもべ」たちも、神さまのことを話して、神さまの教えを支えにして、任された役割を果たしていこうとした。これほどの信仰の成長があることは敬うべきです。3節、祈りの時、神は幻の中で4-6節「ペテロという人を招きなさい」と示された。こういう異邦人がいたのです。

 

第二に9-23a節ですが、9節、ペテロも昼12時に祈りをしていた。ペテロはイエスさまの弟子で、ユダヤ人であり、クリスチャンです。しかしユダヤ人の習慣で一日三度の祈りをささげていく。お腹を空かして、しかも祈りの中で、眠くなった。幻を見た。ユダヤ人の習慣で食べてはいけないと(レビ記11章で)言われている食べ物を「食べよ」と言われた幻を見た。

私たちは「食べ物」を毎日食べている。食べるのは生命を保つためです。生命にとって危険なものは食べてはならない。ところが14節、ここの「きよい食物」とか「汚れた食べ物」という発言は、旧約レビ記11章で教えられてきた、ユダヤ教の理解です。イエスさまの来られた時から、この考えは取り払われたのです。いま神さまがペテロの心を成長させようとしている。ペテロの成長しなければならないこととは何か。

20節「ためらわず」ということです。「ためらう」は「差別をつける」といういみです。「私はユダヤ人である。私たちは古い良い伝統と習慣をもっている。私には聖書があり、正しい判断基準をもっている。――しかし異邦人はくだらない」自分のプライド、自分の持っているものをほめちぎり、他人を見下す。特に民族的差別をつけている心が正され、どの人も同じであるという35節のことを思うまでに成長しなければ、イエスさまのことを宣教していくことはできない。下手なプライドをもって他人を軽蔑していては、イエスさまの本当の弟子となっていない。どの人にも心が開かれていなければ、イエスさまのことは正しく伝わらない。イエスさまがなさったように、どのような人にも応じていく弟子となろう。マグダラのマリヤ、ニコデモ、ザアカイ、らい病人…。

 

第三に23b-33節ですが、コルネリオの家に行って、二人はお互いにこれまでのいきさつを話し合った。ペテロのいきさつは28-29節。コルネリオのいきさつは30-32節。

コルネリオは実にすぐれた人です。2-4、22、31節。これほどの人がおるだろうか。コルネリオにこれ以上、何が必要か。なお必要なことがあり、それは私たち皆にも必要なことである。

 

33節、主がお命じになるすべてのことを聞こう。コルネリオは神さまの言われることを聞こうと、いつも待機している。私たちの信仰も心も、しっかりと造られるのは「神さまに聞こう」という所から始まる。しかも、神の教える一部でない、半分でない、気に入ったところを開くのでもなく、すべてのことを聞こう。神のことばを聞いたら、神さまのことを知って、神さまを愛せずにおれなくなる。神さまが愛している人々を愛せずにおれなくなる。神のことばを聞いて神を知る意味は、ここにある。「こんなことを教えてくれる神さまはすばらしい」これがコルネリオの回心の内容です。すばらしいことです。

信仰の高嶺、信仰の富士山は、聞いているうち、語る神さまを愛し慕う心になっていことです。