私が生まれ故郷の家におったころ、父は「将棋を教えようか」と言ってくれた。父はその頃、村の青年たちに将棋の打ち方を教えていました。ですから自分の息子たちも将棋を打てるようになって欲しいと考えていたのでしょう。兄にも私にも何度も「将棋をしようか」と誘ってくれた。駒の動かし方は分っても、相手を攻める攻め方が分らない。よく覚えられなかったけれども、父に教えられたことがあるという経験は、とても貴重な体験となっている。
父たち、母たちよ、子に教えよ。
13章の15-41節には、パウロがユダヤ人に教えた、教えの内容が記されています。
第一、13-14節。人には様々な人がいる。それぞれ違った性質、感じ方をもつ。このことを認めるのに時間がかかりますが、その人その人の性質や感じ方があることを認め、受けとめていかなければならないことを教えられる。
13節「パウロの一行は」2,5節より、パウロ、バルナバにヨハネです。パポス→パンフリヤ→ペルガ へと、まだイエスさまのことが伝えられていないところに進んでいく。いよいよ、未開の地への開拓伝道が本格化してきた。険しく、ペルガは物騒なところであった。この時ヨハネは、もうこの開拓伝道にはついていけないということで「エルサレムに帰った」。先頭に立つパウロはどんな人か。不自由な体で、目が悪いのに、しかも体力がないのに、イエスさまを知らない人々に何とか伝えたいと、果敢に奥地へ奥地へと向かった。その大胆さに、ヨハネはついていけなった。このことが後にどういうことになっていくのか。15章36-40節、パウロが最も頼りとし、力になってくれていたバルナバと大ゲンカすることになり、ついにパウロとバルナバまでが別れることになった。ヨハネの逃げ腰、つらいことには取り組みたくないという消極的なあり方が、パウロにとっては気に入らなかった。本格的な伝道に、外に向かっていく伝道にはついてこない。むしろエルサレムで、他のクリスチャンたちに囲まれて、そこでの働きの方がよいという性格、またあり方でした。
パウロは、こんな者とは一緒に働けない、とカンカンに怒ってしまった。この後、ヨハネはこの「使徒の働き」の書には出てこない。15:40を見る限りでは、パウロは主の恵みの中を歩んでいくことが記されている。
このことを皆さんはどのように受け取られますか。イザこれから、教会の本番と言う時、険しい辛いことから逃げていくような人にどういう視線を向けるか。危険で、険しい中にあってもイエスさまに大胆に仕えていくときに、主の恵みは大きいし、それこそ神の恵みは本格的に与えられ、喜びもあり、誇りも持って収穫は多い。祝福されていく。
ただ、ヨハネのような人にどういう視線を向けるか。ヨハネは別名マルコ(12:25)です。パウロは、ここでは、そのだらしなさに怒った。「ふぬけ、臆病、弱虫、だらしない」と。ところが、第二テモテ4章11節「マルコを……一緒に連れて私のもとに来てください。彼は私の務めのために役立つから」パウロが、もうこの世での人生が終わろうとするとき、マルコ(ヨハネ)を思い出した。マルコにはマルコの務めがあった。彼は開拓伝道に大胆に取り組むという性格ではない。マルコはよーく考えた。大切なことを見事に文にまとめて、ひきしまった文書を残す人でした。このマルコの書いた書物が、マルコ福音書です。マルコはマルコという器です。これを認めるのに時間がかかる。マルコはマルコと認めたときに、その器の良さが分ってくる。自分は自分であることも分ってくる。
第二に、13章14-23節、パウロはユダヤ人に、ユダヤ人の歴史を旧約聖書から教えていく。昔の預言者たちもそうでしたが、ここでパウロはユダヤ人に信仰を正しく持たせようとするとき、理屈を語るのでなく歴史を語った。私たちも自分個人のことを考えるとき、自分がどんな人間なのか、どこがおかしいのかに気づくには、これまでの自分のあり方、ふるまってきたことを思い出したらよいと思う。16節、まずパウロはユダヤ人に信仰の内容を語りかける。
最初に呼びかける。「イスラエルの人たち。神を恐れかしこむ方々」神を畏れ敬っていくとき、真の信仰者になる。神を畏れ敬って礼拝していくとき、私たちは神の民となっていく。神を畏れ敬っていくときに、神さまから知恵をいただくようになります。神を畏れ敬うとき、真実なイスラエル、真実な信仰者になる。17-23節、イスラエルの歴史を見るとき、
17-19節、神さまの恵み深い働きを見ることができる。
ここでは、人間が出てこない。神の恵み深い働きを見るだけです。
・選んでくださった。
選ばれるって嬉しいじゃないですか。先日、古い古い新聞が押し入れから出てきた。いまの皇后陛下のことが一面に出ていた。日本の庶民の中から皇太子に愛されて選ばれた。皇室の中でご苦労はあったでしょうが、今は日本国民の母親となっている。皇太子に愛されて選ばれたときの美智子様の心の中は青天のへきれきだったでしょう。私たちは神さまに愛されて選ばれた。イスラエルもそうでした。喜びの感動である。
・エジプトにある間に強大にした。
つまり育み、強め、大きくした。私たちの、イスラエルの成長は神の恵み深い御業のおかげです。教会学校の子たちを見ると、私たちもかつてはあんなに小さかった。いまは関取のように強大にしていただいている。
・み腕を高く上げて
神の力強いお働きをさす。エジプトの奴隷状態から導き出した。
・荒野で彼らを耐え忍ばれました
神さまは限りを尽くしてよくしてくださったのに、イスラエルはぶつぶつ不平を言い、そむき、不誠実でした。私は岡山で、牧師になるためのインターンをした。歴史ある教会で、歴史ある方々、ご年輩の方が多かった。その中のひとり、この方はいつも奥さんに対し不平ばかり言う。奥さんは何でもでき、性格が穏やかで、マナーもよい。ご主人を大切にし、尽くして、心を寄せているのに、主人は小言不平ばかりを言う。ふつうなら嫌気がさして怒ってしまうのに、ご主人の不平に黙って耐えている。実は神さまはそうでした。神の恵みとあわれみは尽きることがなかった。それで忍耐された。
20-23節、神の恵み深い働きの頂点を見る。
21節「彼ら(民)は王を欲しがったので、神は……ダビデを立てて王とした」ダビデを立てて堅実な、しかも、強い国家を建て上げさせた。どうして神はダビデを立て、強い王とし、ダビデを通して堅実な国を立てたのか。「彼はわたし(神)の心にかなった者で、わたしの心を余すところなく実行する」人だからです。
ダビデは一生涯、神にへりくだり、神を慕い愛した。いつも神のお考えを伺っていった。「神さまはダビデを見出した」という。こういう人を捜していた。神はご自分に心からへりくだり、愛し、神さまが何を目指し、何を考えているのか、いつも尋ねて仕えてくれた。こういう人を探し求めてきた、いま見つけた、ダビデであった。ダビデを通し、神は栄光を表わしたが、それでも十分には栄光を表わせなかった。
神は人を選び、育て強めるという恵み深い方であるが、それがすべてではない。神は救い主でもあられる。そのことを表わすためにイエスさまを遣わしてくださった。
いまは亡き方ですが、この教会の隣の奥様との思い出を話したい。私たちが散歩してくると、いつも道路端で待っていて、よく親切にしてくれた。教会の敷地の草を積んでおくと燃やしてくれた。ある時、この度よい講師の方が来られるからいっぺん聞きにおいで下さい、と誘ったが、「敷居が高くてね」と言われた。「いや、立派な人ばかりで、私たちみたいに人といがみ合っているような人間は入れない」私はギクッとしました。教会は人といがみ合っているような人間は入れない!私たちは心を探られる。現実は罪にまみれて、心の中を覗かれたくないぐらいあわれな罪人です。私たちが喜べる、誇れるとしたら、罪からの救い主をもっていることではないかと思う。神の恵み深さの頂点は、イエスさまを通して罪から救う(赦す)ということです。
このイエスさまを受け入れ、この救いの奥深さを知っていく人こそ、神の心にかなった人です。