2012年3月25日「熱心で自主的な者」兼松 一二師 : 使徒の働き 17章10-15節

ある四月の初めのこと、クラス替えがありました。先生は生徒にこう言いました。「今日は自分の座る席を皆さんで決めてよいです。自分の座りたい席を決めてください」すると一人の女の子が「兼松さん、私ここに座っていいですか」と言ってきた。私は「いいですよ、どうぞ」と応えた。このことをじっと見ている男の子がいた。三歳年上の子です。何日かして彼が放課後、私を呼び出した。「兼松、お前があの女の子と一緒に座って勉強するなんて、我慢ならない」その日からいじめが始まった。その日から丸四年間、いじめられ続けた。クラス中の男の生徒が一丸となって、毎日3,4人ずついじめにやってきた。その四年間は心が晴れなかった。しかし不思議なことに、今思えば神さまの恵みと思うのですが、3人の隠れた助け手が与えられた。彼らも最初は私をいじめた人たちでしたが、意外なことに、3人は私を助けて、励ましてくれた。隠れた、陰の仲間でした。

一言で、「世の中は、悪い人ばかりではない。助けてくれたり、支えてくれる人々もいる」ということです。

 

今日の17:11-12と17:3を比較すると、「世の中悪い人ばかりでない、よい人もいる」ということがよく分る。

悪い人というのは、手に負えない人で、「騒ぎを起こす」人です。騒ぎを起こさないのが普通の人なのかもしれない。聖書が私たちを導こうとするのは、悪い人になるな、良い人になれ、ということでしょうか。17:11で「良い人たち」というのが出てくる。良い人であれとか、良い人になるということは大切な要素ではあるが、17:12を見ていくと、良い人であるというのは信仰に入る前のことであることが分ります。聖書が私たちを導こうとしているのは、良い人になること以上のことにあると分ります。それは16:31「主イエスを信じて救われ、神さまと共に生きる生活」です。イエスさまを信じて生きていくとは、どんな生活内容なのか。

(IIコリント6:10,11)イエスさまを信じるとき、恵みをくださって、このような生活内容になっていく。

 

イエスさまを信じる信仰をもち、こういう生き生きと、しかもしなやかで豊かな信仰をもつには、どんなことが考えられるか。17:10-12を見てください。特に11節、

第一は、よい人であることです。これは「悪い」の反対としての「良い」でない。εὐγενέστεροιは、口語訳では「すなお」な人と訳している。気高い、心構えの立派な、という意味です。自分の考え方は正しく間違いなく、他人が間違いで劣る、という風に考えない。偏見をもたないで、自分の考えにとらわれない。自由な精神で、どんなことが神さまに祝福されることなのかを考えていく。そういう内容をもったことばです。他人に対して心が開かれている人であるとも言えましょう。私は、この「よい人」というのは性質がすぐれているという内容だと受け止めます。

 

ある一人の青年です。まだ十代で聖書を読んだ。イエスさまの教えの素晴らしさに感動した。「あなたの隣人を愛せよ。迫害する者のために祈れ。右の頬を打たれたら左の頬も向けよ」こんなことを教える方は世にどこにもいない。これはすばらしい。実行しよう、と思った。結果は、実行できなかった。すばらしい教えなのにできなかったということで、非常に心をへりくだらされた。このへりくだりの心が信仰を持たせた。信仰をもってから「この教えはできっこない」と教えを捨てたのかというと、そうでない。「できないけれども、そうしたいし、そうするのが本当だ、と努力しつづけている。そのことが今の私を造ったんです」

日本語に「けなげ(健気)」ということばがあるが、この青年の生き方を表わすのにふさわしいと思います。17:11の「よい人」というのは、この「けなげ」な生き方をもった、心構えの立派な人という意味です。

 

 

第二、非常に熱心にみことばを聞いた。聖書から聞くことで正しい信仰に導かれていきます。しかも「非常に熱心にみことばを聞いた」として、上の空で聞いたのでない。喜んで、進んでする心で、みことばを聞いた。

 

新幹線に乗っていて感心することがある。よく車内でビールを飲む人が、小さなテーブルに缶を置いて、不意にテーブルから床に落としてしまうことがある。するとビールは床一面に、通路も隣の席の下も、前も後ろの席の床も、ベトベトにぬらしてしまう。すると車掌さんが吸取り紙を沢山持ってきて、謝りながら、辺り一面をきれいにふきとっていく。何事もなかったようにきれいにして去っていく。これには感心する。

それにしても、この吸取り紙の力はすごいと思う。非常に熱心にみことばを聞くというのは、吸取り紙のようにみことばを吸収して聞いていくことで、それは魂の目覚めのはっきりした表われであり、前進のしるしです。

 

 

第三、信仰をもつには、しかもしなやかで豊かな信仰をもつには、「果たしてその通りかどうかと毎日聖書を調べた」ことによります。

テサロニケの人たちで信仰をもった者は、17:3-4より、3節「説明し論証して」いただいて信じています。つまり伝道者に説得されて信仰をもっています。ところが、ベレヤにおいては、伝道者から聞いたことが聖書のどこに書いてあるのか、いったいどんな意味なのかを自主的に調べて、「神さまが言わんとすることは、こういう意味なんだ」と分っていった。そうして真理として受け入れていった。しかも「毎日、聖書を調べた」と、ゆっくりと毎日時間をかけて聖書を調べています。運動でも、毎日していくなら筋肉がついてくる。全体が健康である。

「毎日聖書を読み調べていく」信仰をもつと、非常に柔軟性のある、しかもしっかり身についた信仰をもつようになる。現実のことに対応できる信仰理解をもっていきます。

 

自分のこれまでの牧師としての働きの中で、意外なこと、予想もしていないことが次々と起りました。病人を訪問して結核菌を拾ってきて病気になったこともある。あまりにも意外なことが何度かありました。おそらく皆さんも、これから予想外のことを何度も経験されると思う。そういう現実を柔軟性をもって受け入れて、よろこばしい方に導かれていくには「毎日、聖書の意味をつかんでいく」ことが必要だと思います。

 

世界も、私たちの社会も、ますます不確実で、限りなく変わっています。ただ不安がっているのでなく、毎日聖書に向き合い、イエスさまへの信仰をもち、柔軟な対応をしていきましょう。