2012年4月29日「新生と恵」兼松 一二師 : 使徒の働き 19章1-7節

一週間ぶりで皆さんと神さまに礼拝を捧げることができ嬉しく思います。この過ぎ去った一週間に、私は思いがけない方々三人に出逢いました。その内の一人の方のことをご紹介したい。先週この教会においでになった韓国教会からの宣教師です。

 

しばらくお話を聞きました。聞いているうちに心が熱く燃やされるようなものを感じてきた。

この先生の言い分はこんな内容でした。「しっかりした国になるには、先ずキリスト教会が強く、考え深く、しっかりと成長しなければならない。教会がしっかりした教会になってはじめて国家もしっかりしてくる。私は日本の町で、20万人以上の人口のある所にひとつの教会を建てようと取り組んできました。これから中部地区でしっかりやりたいと思っているので、よろしくお願いします」韓国から宣教師としてやってきて、30年ほど日本人の救いのために努力してきた。これからは中部地区でしっかりやりたい。しっかりした教会が形成されて初めて、しっかりした日本になるんだ。

 

19章1節「パウロはエペソに来た。そして幾人かの弟子(クリスチャン)に出会った」とあるが、パウロにとって、クリスチャンに出会うことほど嬉しいことはなかったと思います。私たちにとっても、他のクリスチャンたちと出会うことは嬉しいことです。

ところで、エペソの教会のクリスチャンたちと会って、ここでは心が燃やされたのかというと、そうではなかった。何かが欠けている。肝心な何かが欠けている。洗礼(バプテスマ)も受け、クリスチャンになっている。しかし話し合ってみると、神の恵み深さを体験していない。

 

 

第一、もし私たちがあるクリスチャンと話し合って、「この人は何かが欠けている、肝心な何かが欠けている」ということを感じ取ったときに、私たちはどういう対応をしますか。私たちは毎日色々な人に出会う。その方と話し合って「この人は何かが欠けている、肝心な何かが欠けている」と感じたときに、人として肝心なものが欠けているということで、その人を批判して、つばきをかけ、もう関わらないという対応をとりますか。また、もし仮に出会ったクリスチャンが何か肝心なものが欠けていて、洗礼は受けているものの、内容がクリスチャンとはおよそかけ離れていると感じたときに、批判して、実際はもう関わりを持とうとしないようにしますか。

そういう対応をとる人もいるでしょう。しかし、霊の人パウロ、信仰の人パウロは、そうではなかった。

信仰の豊かな人パウロは、5‐6節までエペソの教会の欠けだらけのクリスチャンを導いた。信仰のある人は、自分と出会う人を自分のレベルまで導き、引き上げていくのです。神の恵み深い取り扱いを受けている人は、欠けだらけの人を自分の体験している所まで導いて、立たせていきます。

 

 

第二、私たちの信仰にとって肝心なこととは何か。(2-5節)

2節「信じたとき、聖霊を受けましたか」信じた時、その時が一生の信仰の土台になる。

私はイエスさまを信じてクリスチャンになったと理解していた。ただ信じるということがどういうことで、どうしたら信仰を持ち続けられるのか分らなかった。私がイエスさまを信じたのは、Ⅰヨハネ1:7-9からです。これでクリスチャンになったと理解している。ところが私が友人にこのことを話したら「兼松!どうしてそんなことを信じられるの?」と質問された。どうして信じられるのか。

次に、ある時牧師から「兼松さん、イエスさまを信じているなら洗礼を受けましょう」と言われた。洗礼を受けて、クリスチャン生活を送りましょう、というのです。私は「全生涯信じ続けるんですか。私には、一生信じ続けるという自信はありません」と牧師に答えた。

聖書の中にある神の約束のことばを受け入れる、信じられるということは聖霊の働きによっているのです。イエスさまに信仰を持つということも、聖霊の護りと常なる助けのもとでできている。ただ私たちは心を閉じないで、神さまと、神さまのことを語る人に心を開いていくことはしていかなければならない。信じたときには聖霊を受けているのです。

 

3-5節、バプテスマを受けたか。ハイ。どんなバプテスマを受けたのか。

バプテスマという儀式は、ユダヤ教にもあった。エペソの教会のクリスチャンは「ヨハネのバプテスマを受けた」。4節、ヨハネは「悔改めのしるしとしてのバプテスマ」を授けたのです。しかしヨハネは語った。「自分のあとに来られるイエスさまを信じなさい。その方こそ、罪を赦す方です。罪を悔改めただけでは何の解決もない。悔改めた罪を赦してくださるイエスさまを信じて、罪から救われ、新しい霊の人になるのです。」

罪の悔改めが必要でない、という意味ではない。罪をはっきり分らなければならない。罪の深さと強さ、恐ろしさを知らなければならない。

 

私も教会へ通い始めたころ、何年も「人間は罪人です」と聞かされてきたが、自分で罪を犯しているという感覚は何もなかった。ところがある時、こんな話をきいた。「自分は大丈夫という人は危ない。自分は自信がないという人はもっと危ない。確かに正しく大丈夫な方に、つながっていなさい」と。

自分は大丈夫、自分を正しい、自分の考えは正しいとすることは過ちです。ここから争いや憎しみが出てくる。そして、神さまと人にそむくことは罪です。この罪の深みと罪の力を恐れ、悔改めて、赦してくださるイエスさまに信頼していく。新しい自分が始まる。新生です。

 

5節、バプテスマは「イエスさまに結びつくというしるし」である。私の罪の赦しのため十字架で犠牲になり、死から甦られて生きているイエスさまに結びつくというしるしが、イエスの名によるバプテスマを受けるということです。

 

 

第三、イエスさまに結びつく信仰をもってからの、恵みの経験が必要です。

クリスチャンになって教会に加わる。その時ひとりひとり持ち味を持ち、持ち場があることが分る。似ているようでも違う持ち味があることが分る。教会の一つ一つはひとりひとりの持ち場によって動いている。持ち場と共に持ち味は、たとえばオルガンを聞いて分かる。三人が三様です。

手を置いたとき、神の恵みの賜物が与えられた。異言は「祈り」のひとつです。人の思いや言葉を超えた祈りの姿です(1コリ14章)。預言は神のみ旨についての確信のあることばです。今、新井伝道師が入った。これから話す機会が出てくるでしょう。私とは違った神のみ旨の説き明かしがあろう。持ち味が違う。

 

神のみ旨が広く、豊かで、あわれみ深いことが分っていくとき、ますます仕える。

こういう中で、神さまは豊かな方であると分り、ますます信頼し、祈り、みことばを聞き、仕えていく。天上のことまで感じ取っていく。これが、生きたキリストの教会の動きです。