2012年5月6日「悪しき霊」兼松 一二師 : 使徒の働き 19章8-20節

先週、ある方と初めて会った。その方は私にこんな質問をしてきました。「先生はヘニ・ヘラー先生を知っていますか」私は「あー知っています。かわいらしいドイツ人ですね」と応えると、その方は「私はその方と会いたくてよく笠松に行った。今から40~42年前です。その先生と話したくてドイツ語を勉強した」という。「40~42年前というと、私が笠松の牧師になった頃で、ヘラー宣教師は笠松に出入りしていた。じゃ、あなたと会っていたかもしれませんね」「ドイツ語でヘラ―先生に話そうと思っていましたが、いつも聖書の話をしてくれました。その内に聖書のことばに興味を持って、聖書を読むようになった。不思議な導きだと思います」

 

19章10節、「主のことば」は聖書という意味です。20節「主のことばは驚くほど広まり力強くなっていった」この主のことばも聖書のことばです。聖書のことばが、きく人の心にしっかりと根をおろし、きく人はこの聖書のことばによってイエスさまを信じ、聖書に深く根ざした信仰をもった。こういう人々が増えていった。聖書という主のことば、神のことばを聞いて、きいた人の心に聖書のことばがしっかりと根を張り、力強い信仰をもつに至らせた。力強い信仰をもったら、信仰ある人には心の拠り所ができ、希望が湧いてきて、人を愛することにつながっていく。

 

 

第一、8-10節、多くの人が主のことばを聞くようになった。それはどのようにしてか。

8節、パウロは会堂に入って語った。きょう会堂に入ってくる人々というのは、基本的にイエスさまのことを信じている人、信じようとしている人々です。今ここにおる私たちが聖書、神のことばを聞くということから始まる。私たちは聖書から何を聞きとっていくのか。「神の国」を知っていくことです。

 

神の国とは何でしょうか。それは「天国」とも言い換えることができる。天国というと「そりゃおじいさん、おばあさんには身近なことでしょうが、若くて元気な私たちにはまだ必要ないことだ」と考えるなら、それは誤解です。神の国とは、神さまが私の現実に働いている、深く私と関わっているということです。

 

例えとして話しましょう。昨年2011年、私は生まれ故郷秋田へ帰った。最初、私の実家で、こんな話をした。「私はこの家で生まれ、この家を巣立って、今、高齢者になりました。人生を振り返って、私の人生はよかった。この家に生まれてよかったと思い、感謝の意味で、今日この古里に来ました。私の人生の何がよかったのか。私は過ちが多かったが、私の過ちをゆるし、よい方に導いてくださる神さまを知ったのです。私をよい方に導いてくださる神さまに祈るというのが讃美歌です。この讃美歌を知ったことも、私にとってよいことでした。その一部を皆さんと一緒に賛美し、私にとってよかったことを一緒に体験していただきたい」讃美歌と共にした家での集会が終わったあと、村の人がこう言ってくれた。「この家で生まれてよかった、なんて言う人と会ったことがない。そんなことを言える人はいないですよ。よいことを体験したんですね」

詩篇103:2「わがたましいよ、主をほめたたえよ。主(神)がよくしてくださったことを何ひとつ忘れるな」神さまは、よい人生に導こうとして私の日々の生活を導いておられる。神さまはイエスさまをこの世に生まれさせ、このイエスさまを通して私たちの人生をよいようにするという保証をしてくださった。このような中に神さまはどの人をも招いているのです。私もよい人生にして下さいと応答するのが「信じる」ということです。

 

9節、「しかし、ある人は心をかたくなにして聞き入れず、この道をののしった」信じるなんて、とけなしたのです。なぜだろう。信仰心をけなしたのでない。日本人のことを考えると、年の初めに神社へ行く、自分の家族が死ぬと葬式を行う。信仰が愚かと考えるなら正月に神社へ行ったり、葬式を宗教儀式で行うことはしないと思う。信仰心でなく「この道をののしった」せせら笑いけなしたのは、嫌がったということです。

聖書の神のことばは、私たちの心の中をあぶり出してくる。それが嫌なのです。

 

 

第二、11-20節、神の力を見せた。神はどれほど力と権威があるかを見せた。

8,10節では主のことばを聞かせた。11,12節では見せた。神のことばを話したパウロが奇跡を行い、神のことばはどれほどの力と権威があるかを見せた。

私は牧師のインターンのため、岡山へ行った。その時、ある家庭にひとりの老牧師が招かれていた。その人は病気のいやしをするという。私はそれまで半信半疑でした。病の人を前に呼び出して、病のところに手を置いて祈り、いやす。「イエスの名によっていやす」足の悪い人がいやされた。「歩く」のを見ていやされたのを見た。その時、牧師は「いやしたのは私でない」と言った。

11節「神がパウロの手によって奇跡を行われた」クリスチャンは神さまと関わっていると、不思議なことを体験する。自分には力がないのに、力が出てくる。力は私たちが神さまと深いかかわりをもっている証しである。力ある神と関わっている証しとして私の力とは別の力が加わってくる。

 

驚くほどの力を見て17-19節、信仰に入った人々が、神のことばを聞き、ことばの力を見て「自分のことをさらけ出して悔い改めの告白をした」。大事なことは、信じた人が、自分のしていること、してきたことで、他には気づかれず密かに隠れてしているような罪をもっていないだろうかということです。隠したままにしていくと、いつになっても進歩のない信仰者となり生活に力がない。力ある奉仕もできない。過ちを神にさらけ出して悔い改め告白しないと、他人に見えない部分が強くならない。しっかりと造られていかない。

 

一人の壮年、45歳程の方です。教会の案内をいただいて、その教会へ行った。働いても働いてもちっとも生活がよくならない。ある時聖書を見た。「主を信じる人で物乞いをして歩くのを見たことがない」(詩篇37:23-26)をみて、この神を信じたら祝福されると分り、信じた。ところが家へ行くと病気で弱った父が神棚を拝んで力を得ようとしていた。それを見て、父をあわれに思った。丁度その時、詩篇115:3-8を見て心が目覚めた。これだ。そして父に「これは人が造った物だ、私たちに何もできない。捨てよう。私たちを生きた生活にしてくれる神がいる。イエスさまを信じよう。お父さん、これを捨てて燃やそう。これがあるとどうしてもこれにまた戻るから」この家は家族が皆イエスさまを信じ、明るい、しかも一人一人がしっかりとした家族になった。

「さらけ出して告白し」これは本気で信じていく決意です。そして19節「魔術の本を焼く」はもはや今後、この過ちには戻る機会をなくそう、と自分に配慮したということです。

こういうさらけ出しの告白をし、もうあの罪に戻れないようにするというほどイエスさまが働いている。こうするとき、力強い信仰者につくられていく。