2012年6月10日「神の怒りの啓示」新井 健二師 : ローマ人への手紙 1章18節

 以前お話しした16節17節では、「私は福音を恥とは思いません。」という、パウロの信仰告白と共に、「福音は、、救いを得させる神の力で」あるという、ローマ書全体の主題を学びました。

 そして18節からは、いよいよこの手紙の本論に入ります。

 この本論において、著者パウロが第一に取り上げる主題は「神の怒りの啓示」でした。

 その理由は、私たち人間が「福音」のうちに証しされている「神の義」を完全に理解する為には、まず私たち人間の現実を、知る必要があるからです。

それでこの箇所から3章20節までは、私たち人間の罪深さと神様の怒りが、繰り返し語られて行きます。

 そして今日取り上げる1章18節は、続く32節までの内容の主題であり、非常に重要な箇所です。

 それで今日は、この1節だけを取り上げてお話しさせて頂くことにしました。

 まず初めに、直前の17節と今日の箇所18節に使われている「啓示」という言葉について、少し説明をしたいと思います。

 この「啓示」という言葉は、日常生活の中で使われる事は殆ど無い、宗教的に特別な意味を持つ言葉ですが、キリスト教信仰を理解する上では、非常に重要な言葉です。

 この言葉は、もともとは「覆いを取り除く」とか、「明らかにする」という意味の言葉から派生した言葉です。

 そしてこの言葉のキリスト教的意味は、絶対者であられる神様が、人間に救いをもたらし、また、正しい交わりを回復する事を目的として、自らの存在とご性質、またそのご計画を示す積極的な行為であると理解する事が出来ます。

 そこで聖書の証しする神様は「啓示する神」と呼ばれる事があります。

これをもっと分かり易い言葉に言い換えると、「自ら語られる神」と言う事も出来ます。

 そしてそれは、単に私たち人間に対して語り掛けるお方であるという以上の意味を持っています。

 聖書全体の始まりの書物である『創世記』は「初めに、神が」という言葉で始まります。

 そのように聖書は、神様という絶対者の、主導的、主体的活動に貫かれています。つまり聖書においては、最初に事を始めるのは、常に神様であるという事です。

 そして「啓示」とは、人間が神様を探り求めるのに先立つ、神様の側からの自己開示であって、まさに「初めの言葉」であると言う事ができます。

それでは、その事を踏まえて、今日の聖書箇所ローマ人への手紙1章18節を詳しく見ていきたいと思います。

 

本論1)

 この箇所を、聖書が書かれたもともとの言葉で読んで見ますと、「なぜなら、神の怒りが天から啓示されているからです。」という言葉が文の冒頭に置かれて、強調されている事が判ります。

 この「なぜなら」という言葉は、18節以降の内容が、直前の16節17節で語られた、「神の義の啓示」である「福音」との関わりにおいて語られているという事を意味しています。

 前回の結論として、「義人は信仰によって生きる」とは、「もし義人でないのなら滅びる」という事をも意味するのだと、お話しました。

 そして義人とは、神様の言葉に、黙って耳を傾ける者の事であるとも、お話しました。

 ですから、17節後半の言葉を「信仰によって神様の言葉を聞かない者は滅びる」と理解する事ができます。

 そして18節の「なぜなら、」と続きます。

「なぜなら神の怒りが天から啓示されているからです。」

こうなると、話の流れは良く解ります。しかしその反面、私たちの心は穏やかではなくなります。

 パウロは、この「神の怒り」の原因を「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正」であると述べています。

 私たちにとって、神様の愛や恵みというのは、比較的理解し易い気が致します。

 しかしそのような場合でも、神様の愛や恵みについて、自分に都合よく解釈して、理解したつもりになってしまうという危険が、無い訳ではありません。

 もし自らの意思や、自らの視点からではなく、神様の言葉を「初めの言葉」として、つまり、神様の意思と視点を第一に考えて聞くならば、イエス様の十字架は、神様の深い愛を表現すると共に、激しい怒りの現れである事をも理解する事が出来ます。

 「わが腸(はらわた)彼の為に痛む」これは、エレミヤ書31章20節に書かれている、預言者エレミヤが聞いた神様の言葉の文語訳です。そしてこの「痛み」こそが、私たち罪人に対する神様の「愛」と「怒り」という、相反する感情の葛藤を、良く表していると思います。

 キリスト教信仰の偉大な父の一人であるアウグスティヌスによれば、「罪とはいかにしても赦されざるもの」であると言われています。

 そして、日本を代表する近代の神学者北森嘉蔵は、その著書『神の痛みの神学』の中で、その「いかにしても赦されざるもの」を赦す神様の御心こそ、福音の心であるとし、それを「神の痛み」という言葉で表現しました。

 十字架とは、神様が罪人である人間を赦し、その現実から救い出す為に取られた、まさに「痛ましい手続き」であったと言う事ができます。

 その痛ましさの故に、十字架には、私たち人間に対する神様の愛の必死さが、余すところなく表現されています。

 それ故神様は、十字架において、私たち人間に対する「最後の言葉」を語ったのだと理解する事ができます。

 そしてその「最後の言葉」は、信仰者にとっては「最初の言葉」となり、信仰はまさに「十字架のことば」から生まれると言う事が出来ます。

 この「十字架のことば」という表現は、聖書の中では、コリント人への手紙第一の1章18節で、パウロが一度だけ用いている言葉ですが、私はこの言葉は「福音」を表す、最も簡潔で適切な表現の一つであると考えています。

 

本論2)

 聖書本文に戻りたいと思います。

 「不義をもって真理をはばんでいる人々に対して」とあります。

 聖書が語る「真理」とは、この世の哲学者たちが求める、単に普遍妥当性がある知識、或いは知恵というような、思想や概念ではなく、被造物すべての救いの為に明らかにされた、神様の御心、つまり「福音そのもの」を意味しています。

 それでは、「真理をはばむ」とはどういう事でしょうか。

 福音は「救いを得させる神の力」である、というのがパウロの考えでした。

ですからここで「真理をはばむ」とは、神の力である「福音」をはばむ事を意味しています。果たして私たち人間に、そんな事が出来るのでしょうか。

 「真理」即ち、神様が唯一の創造主であり、裁き主であり、且つ救い主であるという事実は、不変です。その事実が人間の知恵や力によって左右されるという事は有り得ません。しかし、私たち人間の無知、愚行、また虚偽によって、その「真理」を一時的に曖昧にして、覆い隠す事はます。 

 そしてそれは恐ろしい事です。私たちは「真理」を覆い隠す事によって、自らを救いから遠ざけるだけではなく、隣人をもそれに巻き込んでしまうからです。

 人々が「真理をはばむ」のは「不義によって」であるとパウロは語っています。

 この「不義」とは、単に倫理、道徳上の逸脱行為や、宗教的戒律に関する違反行為を指してはいません。それらはすべて、人間的な基準です。

聖書の語る「不義」とは、徹頭徹尾「神の義」に対する反抗であり、神様の視点を基準とした、根本的なずれ、「的はずれ」を意味しています。それは別の言葉では「罪」と呼ばれています。そのような根本的な「罪」の性質を、アダムとエバの子孫である全人類が、生まれつきに、例外無く持っていると聖書は断言しています。

 ですから、ここで言われている「人々」とは、第一義的には、異邦人、異教徒であると考えられなくもありません。しかし、むしろ私たちクリスチャンも含めた、全人類であると考えることもできます。

 パウロはここで、この「不義」の内容を、大きく二つに分けて説明しています。

 それが「不敬虔」と「不正」です。

 「不敬虔」とは、神様との関係に、直接関わる不信仰を表しています。別の言い方をすれば、「神様の言葉を聞かない」という事です。

 創世記の2章を読むと、地の塵から造られた人間は、神の息を吹き込まれる事によって、「生きるもの」となった事が書かれています。そして聖書には、人間以外の動物に、神の息が吹き込まれたという事は、一切書かれていません。

 つまり「神の息」が、人間を他の動物たちから別けて、人間たらしめていると言う事が出来ます。

 そしてこの「神の息」を「神の霊」と言い換える事も出来ます。ところでこの「神の霊」を、何らかのエネルギーであると考える人もあるようですが、聖書の語る「神の霊」とは、単なるエネルギーのようなものではなく、独立した人格ある存在、即ち「聖霊なる神」です。

 人格的であるとは「語る言葉を持ち、コミュニケーション可能な存在である」という事です。

 そして聖書における「聖霊様」の働きを調べてみると、それは「言葉」と非常に密接に関わっていることが判ります。

 第二テモテ3章16節によれば、語られ、書き留められた神の言葉である、聖書のすべての言葉は「神の霊感によるもの」であるとされています。

 この「霊感」という言葉は「息を吹き込まれた」とも訳する事が出来ます。

 そして、一つの興味深い事実があります。

 それは言葉とは、文字の文化が発達する遥か以前から、「語られる」ものとして存在したという事です。言葉はすべて、究極的には、「口から発せられるもの」を指しているのです。

 そう考える時、「言葉」と「息」もまた、非常に密接な関係にある事が解ります。

 ここから、創世記2章において、「神の息」が、人間を人間たらしめたのと同じように、神様の口から出る一つ一つの「言葉」が、人間を人間たらしめていると言うことが出来ます。

 ですから、神様の言葉に耳を傾けない時、人間は、その人間性を失います。

神様からの恵みとして、人間は、他の動物には無い、多くの知恵と特権を与えられています。

 しかしその人間が、神様の言葉に耳を傾けない時、自己中心に陥り、あたかも自分は万能であるかのように思い込み、その野蛮にして残酷な行為は、獣にも劣るということを、人類の歴史は繰り返し証明しています。

 人間が神様に聞かない事、即ちこの「不敬虔」が、この世に多くの悲惨を招いています。

 それでは「不正」とはどういう意味でしょうか。

 「不敬虔」が神様との関係について言われているのに対して、「不正」は人と人との関係について用いられる言葉です。

 神様の言葉に耳を傾けず、自分が万能であると思い込む、自己中心に陥った人間は、当然隣人の声にも耳を貸しません。

 人が自らの意思と考えを絶対化し、隣人にそれを強要する事が、この世の悲惨をさらに深刻にしています。

 神様の声に聞き従わない人々は、弱者の声にも耳を傾けません。

 目の前に、弱って困り果てている隣人がいるのに、その声を聞こうともしません。

 弱っている人はさらに弱くなり、声を発する事も難しくなります。そしてそのまま、社会全体が死に瀕して行きます。

 それが「不正」の行き着くところです。

私たちが聞くべき声は、声高に叫ばれる世の声、また「これが神の御心である」と断定的に宣言する、勢いのある人々の声ではありません。

 むしろそれは、私たちが一人で、神様の御前に静まる時に聞こえる、神様の微かな御声です。また、弱って困り果てている隣人の、言葉にならない心の叫びです。

 このような、神様と隣人の声に耳を傾けない「あらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されて」いるのだとパウロは述べています。

 そして本来なら、このような「神の怒り」を免れる事ができるほど、「敬虔」で「公正」な人間など、この世には一人もいません。

 その事は、人類の歴史を見れば明らかです。20世紀に生じた二つの世界大戦、とりわけ第二次世界大戦は、人類史上類を見ない悲惨さと人間性の腐敗をもたらしました。

 ナチスによるユダヤ人虐殺、私たちの国に投下された二つの原子爆弾による惨禍、また私たちの国が行った隣国や東南アジア諸国への侵略、またその他の多くの国々に同じように見られる、侵略戦争に伴う非人間的な不正。彼等は例外無く、正義と自由と解放を唱えつつ、不義と暴力による支配を遂行しました。この人類の悲惨な歴史こそが、「神の怒り」の現実の姿だと、私は思います。

 

本論3)神の怒りの「啓示」

 次に、神の怒りは「天から啓示されている」と書かれています。

 「天」とは直接、神様の住まう御座を指すとも考えられます。しかし、ここではむしろ「人知を越えた、目に見えない世界」を表していると考えても良いと思います。

 人類の恐ろしい歴史を考える時、この世界は、目に見えない巨大な呪いの中にあるかのように感じられます。

 それ程までにはっきりと、「神の怒り」はこの世に現されています。

 神様が、永遠に正しい裁き主であり、人類が永遠に罪人である限り、この恐ろしい連鎖は限り無く続き、そこには救いがありません。そして「神の怒り」の現実である、私たちの悲惨と苦しみは、なんら意義を持たない、純然たる苦痛でしかありません。

 そこで多くの哲学者や思想家、芸術家は「この世は空しく苦痛に満ちている」という結論に至っています。

 確かに「この世は空しく苦痛に満ちて」います。

 私はクリスチャンとして、この事実を否定するつもりはありません。むしろ、もっと多くのクリスチャンが、この事を真剣に受け止める必要があるとさえ考えています。

 もしこの世に絶望していないとしたら、どうして「上のもの」を求める事ができるでしょうか。

 繰り返しになりますが、「神の怒り」が、ただそれだけで「啓示」される時、その現実は、私たちにとって単に苦しいだけの無益なものです。

 しかし、神様は怒りだけを「啓示」されたのではありませんでした。

 恵みと憐れみに富んでおられる神様は「十字架のことば」をも語られました。

 ここでは再び「啓示」という言葉の意味に注目して見たいと思います。

 聖書が語る「啓示」とは、それがどのような形のものであれ、最終的には、人類に救いをもたらす事を目的とする、神様の御心、つまり「福音」であるところの「十字架のことば」に奉仕するものです。

 この事からも「十字架のことば」こそ、「最後の言葉」であると言う事ができます。

 それでは「神の怒りの啓示」である、この世の悲惨と苦痛が、「十字架のことば」に奉仕するとはどういう意味でしょうか。

 それは、1章20節に書いてある通り、「彼らに弁解の余地」を与えないという事においてです。

 誰の目にも、神様の怒りは明らかにされなければなりません。

 そこから逃れる為には「十字架のことば」を受け入れざるを得ないことを、すべての人が理解する為にです。

 人は誰も、意味のない苦痛に耐えられるようには造られていません。

 「十字架のことば」は、この世のすべての悲惨と苦しみに意味と尊厳を与えます。

 すべての悲惨が人間を救いへと導く「道標」となるからです。

 この世のすべての苦しみが、イエス様の十字架の御苦しみへの「証し」となります。

 これらの事は、私たちが「十字架のことば」即ち「福音」に耳を傾けるときに起こります。

 ですから「福音」は、語られ続けなければなりません。

 今日の箇所からは暫く、パウロは私たちの罪について語ります。

 果たして神様は、私たちに裁きを言い渡すために、パウロを通して語っているのでしょうか。

 実のところ、私たち人間に対する裁きは、人類の歴史を通して、すでに下されています。

 旧約聖書の多くの部分が、歴史的な記述である理由の一つは、まさにその為であると思います。

 イエス様は、その裁きの判決を覆す為に、この世に来られました。そしてその企てが、完全に成し遂げられたという大逆転の知らせこそ「十字架のことば」、即ち「福音」です。

 イエス・キリストの「福音」によれば、私たちが自分自身の罪深さを知れば知る程、私たちの喜びは増し加わります。なぜならば、私たちの罪の大きさは、そのままイエス様が勝ち取られた、勝利の大きさとなるからです。お祈り致しましょう。